深いしわの理由 国に見捨てられた女性たち

By 佐々木央

小田今朝江さん

 なんという顔だろう。額にも頰にも口元にも、深いしわが幾重にも刻まれている。生きのびていく過程でどれほどの辛酸をなめたのだろうか。長年の過酷な労働をしのばせる赤銅色の肌。瞳に浮かぶのは悲しみか怒りか、あるいは諦めだろうか。今にも涙がこぼれ落ちそうにも見える。

 横浜・綱島で写真展「中国残留婦人の伝言」を見た。写真家・千島寛(ちしま・ひろし)さん(62)が20年以上にわたって撮り続けた女性たちの写真が展示されていた。

 「中国残留孤児」は聞いたことがあっても「残留婦人」は知らない人が多いだろう。どちらも第2次世界大戦末期、旧満州へのソ連軍侵攻と関東軍撤退により日本に帰国できず、中国大陸に残留した日本人である。1945年8月9日(旧ソ連参戦時)、13歳未満で自分の身元を知らない人は「残留孤児」、これ以外の人たちが「残留婦人等」とされるが、ほとんどが女性なので「残留婦人」と呼ばれる。

 残留婦人について、国は長く「13歳以上であれば自分の意思で残留した」といういわば「自己責任論」によって援護の手を差し伸べず、中国との国交が回復しても放置し続けた。国に見捨てられたのだ。その苦難の歴史は詳述しないが、援護の対象となっても、なお差別的な扱いは続いた。

 冒頭に紹介した写真の女性は小田今朝江さん。日本名は「ケサヱ」だが、中国での届け出名は漢字でなければならないので「今朝江」となった。

 開拓団として先に満州に移住した家族と合流するため1945年3月、24歳で渡満。半年もたたずソ連が参戦する。知り合いの中国人の家に身を寄せていたが、楊という男に連れ去られ、生活を共にするようになる。略奪婚だった。結婚生活は貧しく、洗濯をしたら着る物がないという状態だった。

 子どもがなかったので女の子をもらって養女として育てた。養女は結婚し子ども3人をもうけるが、家を出て行く。小田さんは養女に代わり、3人の孫を実の子のように育てた。

本間武子さん

 2003年、日本に永住帰国。孫を日本に呼び寄せようとしたが、かなわず、10年に故郷・宮崎県で亡くなった。89歳だった。特別養護老人ホームのベッドの枕元に飾っていた自筆の書は「永遠平和」。千島さんの撮影で写真として展示されている。「切なる願いだったろう」と千島さん。

 新潟県出身の本間武子(本名・タケ)さんは日本で看護師をしていた。産後の肥立ちの悪い姉の面倒を見るため満州国の首都・新京(いまの長春)に渡り、敗戦後は医療技術があることから国民党軍に留用された。「留用」とは自国にとどめて使うという意味だ。

 国民党軍の将校と結婚したが、内戦で共産党に破れ、苦難の戦後を歩む。子どものために永住帰国を断念、07年に93歳で死去した。「死んだら渾河(こんが)に骨を投げ込んでほしい、そしたら流れ流れて故郷の佐渡に帰れるでしょ」と話していたという。

浦崎蓮さん

 浦崎蓮(本名・レン)さんは敗戦後、女5人で山へ逃げるが、はぐれて1人になり、持っていた金品を奪われる。張という男に金で売られ、張との間に1男3女が生まれるが「おまえは金で買った女だ」と、しばしば暴力を振るわれた。いったん日本に帰国するが、病気になった張に「中国に戻ってきてくれ」と泣きつかれ、中国に戻った。2010年死去。92歳だった。

 「戦後73年、私が被写体として追い続けた女性たちは全員亡くなりました。しかし、この女性たちのことを歴史の海の底に沈めてはいけないと思う」。千島さんはそう語っている。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)=写真展は6月18日から7月16日まで開催された

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