ミャンマー人の肖像 ヤンゴン唯一の「和風中華」の王道を往く料理人 B級グルメの懐かしい味を安価で提供する苦労人

ミャンマー人の肖像

[U Mg Mg Hla マウ・マウ・ラさん 「URESHI」Kitchen オーナーシェフ](

ミャンマーの民政移管がスタートし、前政権が様々な改革に乗り出した2012年に、ダウンタウンのShwe Taung Tun通りに、一軒の大衆中華料理店がオープンした。それが今回紹介するラさんのお店「URESHI」だった。
当時は日本料理店が20軒余りしかなく、日本人会登録者も200人に満たなかった。そんな時代に赴任してきた邦人の方々は、一度はこの店に足を運んだことがあるのではないか。
何しろ中華といってもこの店は本格的な「和風中華」を売りにするヤンゴンで唯一の料理店だった。だからラーメンも醤油、みそ、塩、とん骨と種類を揃え、つけ麺やソース焼きそばなど、とにかく「和風」に徹し、麺やスープにもこだわった。
「日本人の方には硬めのジャパン麺を、ミャンマー人にはやわらかい緬を出し、緬を選べるようにしました。スープも、例えばつけ麺なら池袋の「大勝軒」の味に近いものを出すように努力しましたよ。(笑)」と、ラさんは初めて胸の内を明かしてくれた。
もちろん現在でもそのスタイルは守っているが、単身赴任の方々は“ラーメン餃子”や“ニラレバ定食”などのメニューに出会うと妙な懐かしさを覚え、この店の隠れファンとなっていくケースが多かった。
邦人のハートを掴むこうしたコンセプトを打ち出したラさんは当然日本で修業を積んだ。
「1991年に伝手を頼って日本へ行きました。とにかく技術を身につけたかったんです。しかし気が付いたら結局17年も向こうに居てしまいました。当初の目的は車の輸出入とか、メンテナンスとかの実務や技術を覚えることだったんですが、途中から料理の道に入ってしまいました。この仕事も嫌いではなかったですからね。」
最初は東京蒲田の中華料理店で皿洗いとか雑用からスタートした。その後居酒屋で接客業を学んだ。
「懸命に働きましたよ。そしたら店のオーナーから店長みたいに頼りにされて、給与もこちらが驚くほどの高額な時給を提示されました。でも、そんなに頂くわけにはいかないと思って、これは辞退しましたが。」
生来真面目な性格だが、お人よしだった。失礼ながら、お話しをうかっがていると、どこか吉本の芸人さんを思い浮かべるキャラを感じた。そんな性格が日本人にも好かれた。
「5年ほど居酒屋で働いて、そのあとで池袋の近くの中華料理店で本格的に料理人の修業に入りました。スープが命ですから、そのとり方も勉強しました。日本ではつけ麺が人気でしたから、こちらのダシスープも研究しました。私個人としては、当時池袋の大勝軒のつけ麺に憧れていましたから、ミャンマーに帰ってから何とかこのスープに近いものができないか、日夜研究を重ねましたが、結局、ダシをとる材料、たとえば煮干しとかいい鶏ガラとか、ミャンマーでは手に入らないものが多く、完璧に近い味にはなりませんでした。」
それでもラさんの店が邦人に受けたのは、なんといっても価格の安さだった。どんなにお腹一杯食べても、1人7,8000Ksもあれば十分である。
2008年に帰国したラさんは、5年後の2012年に「URESHI」を開店。中華だがミャンマー人向けに寿司や巻物をメニューに加え、ローカルの客も押しかけ、店は繁盛した。
しかし民政移管が進むと、ミャンマーはプチバブル的な雰囲気が漂い始めた。特に不動産価格が高騰し始め、賃貸物件も異常な価格になっていった。
「案の定、うちの店の大家さんも値上げを通告してきました。多くのお客さんに来てもらいたかったので、できるだけ安い料金で料理を提供していましたから、常識外れの家賃値上げではやっていけなくなりました。」
そのため止む無く2015年にジャンクション・スクエア―の近くに移転を余儀なくされた。
「いい場所で、店は再び軌道に乗り始めましたが、何しろあの辺もジャンクションの新館ができたり、まもなくTimes Cityという大型の複合施設が開業予定で、地価も急激に上がりました。そのため、ここの大家さんからもやはり値上げの話を切り出されました。去年の10月くらいですよ。それも倍の家賃です。日本人の方が家賃値上げで徹退という話はよく聞きますが、ミャンマー人に対しても同じです。これではいくら商売を軌道に乗せても足を引っ張られてしまいますよ。」
そこで仕方なく、ラさんはまた昨年12月の末に移転を決意した。初めて出店したShwe Taung Tun通りに親戚が関係するいい物件が見つかり、再び戻ってきたのだ。「2月1日に開店できます。2階には座敷風のスペースを設けて寛いでいただけるようにしました。味も値段もこれまで通りですからぜひ気軽に来てください。」
かたくなに「和風中華」に徹するラさんの店の存続は、ファンの一人としてうれしい限りである。

<Mg Mg Hlaプロフィール>
日本名 佐藤ひろし
生年月日 1963年6月2日 54歳
生まれ ヤンゴン 仏教徒

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