320人分の生徒の安否をノートに 教師としての強い責任感を胸に、焦土駆け回り記す

 長崎原爆の投下から約1カ月後に31歳で亡くなった長崎県長崎市の県立長崎高等女学校(当時)教師、角田(つのだ)京子さんが被爆直後、学徒動員されていた生徒たちの安否を記録したノートなどの遺品が、長崎原爆資料館(長崎市平野町)で8月3日から初公開される。遺品は、角田さんが被爆しながらも教師としての強い責任感を胸に焦土を駆け回ったことを伝え、長崎市被爆継承課も「当時の克明な記録として価値が高い」としている。

 長崎市被爆継承課や親族によると、角田さんは女学校で被服を教えていた。1945年5月25日から女学校3年生が三菱長崎兵器製作所大橋工場(爆心地から約1・3キロ)に動員されると、監督になった。8月9日は市中心部の自宅から工場に向かう途中、爆心地から約3・6キロの出島付近の電停で被爆。その後、工場のがれきの中で寝起きしながら生徒の遺体収容や安否確認に駆け回ったという。

 残されたノートには約320人の生徒名と「健在」「負傷」「死亡」の状態、居場所などを記載。当時の生徒で芥川賞作家の故・林京子さんについても本名で「宮崎京子 健在 諫早に帰宅」と記入されている。

 角田さんは8月18日に高熱で倒れ、9月7日に死亡。卒業生が発行した「被爆体験記-あの日、あの時」は、病床の角田さんが島原半島の友人女性に宛てた最後の手紙を掲載している。

 「毎日のように四十度の熱に苦しめられて、本当にあの時私もそのまま職場で殉職していた方がどんなによかったかしら」「監督三人の中二人までも失って取残された私に最後のはたすべき勤めがのこされている様な気がいたし、その夜から三年生三百二十一名、生存、負傷等の調査にあたりました」(原文のまま)などと角田さんはつづった。

 心配した友人は3通返信し、「空襲以来その十日間頑張られた姿が想像され涙なくしてはよめませんでした」「お逢ひ致したくてたまりません ほんとうにあちこち相当の被害でせうね」「早く元気になって下さいませ そして秋の歌でも歌って下さい」(原文のまま)などと記している。

 長崎原爆資料館では、友人の返信と、角田さんによる生徒の安否確認ノート、原爆投下前日にかけての生徒の出欠状況や空襲警報の時刻を記録した「工場日記」などを展示する。

 資料を同館に寄贈したおいの角田直亮(なおあき)さん(72)=福岡県北九州市=は「学校では厳しい先生だったようだが、生徒を愛していたのだろう。資料が何かの役に立てば」と語った。

角田さんが、生徒たちの工場での出欠状況や被爆後の安否などを記したノート
生前の角田京子さん(長崎原爆資料館提供)

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