背番号失った3年生 悔しさ隠し「チームのために」 地方大会→甲子園 登録選手2減の影響

 部員123人の創成館でつかんだはずの背番号。夢だった夏の甲子園の開幕直前、2人の3年生がそれを失った。内野手の埜川希龍と投手の佐藤泰稀。登録選手20人の長崎大会では、埜川が13番、佐藤は19番をつけて歓喜の輪の中にいた。だが、甲子園のベンチ入りは18人。「本当につらい…」。稙田龍生監督も苦渋の決断だった。
 18人が発表されたのは優勝から2日後。学校全体が祝福ムードに包まれていた中で「不安や緊張で苦しかった」(埜川)、「自分じゃないかと危機感があった」(佐藤)。
 2人の予感は現実になった。時間をおいて1人ずつ呼び出した稙田監督は「笑顔で“大丈夫です”と言われて、逆に悲しくなった」。悔しさを胸にしまい、チームのために気持ちを新たにした2人に感謝した。
 長崎市立小島中出身の埜川は守備力が自慢。今季は一度もベンチから外れずに副主将も務めてきた。「正直悔しいが、これまでは自分もベンチに入れないメンバーに支えてもらっていた」。だから、懸命に気持ちを切り替えた。「チームは頂点しか狙っていない。声を張り上げ、しっかりサポートする」
 佐藤も思いは同じだ。福岡県糸島市出身で中学時代は1番打者で遊撃か投手というチームの大黒柱。「自分にどれだけ力があるか試したくて創成館を選んだ。お父さんには“ごめん”と電話した。ただ、これも一つの経験だと思っている。今は部員全員で、日本で一番長い夏にしたい」と言葉に力を込める。
 卒業後も高いレベルで野球を続けるという2人に、稙田監督は期待を込める。「この悔しさを次のステージにぶつけてほしい。人生の勝ち組になってほしい」

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 夏の甲子園の登録選手を巡っては、第14回大会(1928年)から14人以内と制限され、第60回(78年)で15人、第76回(94年)で16人、第85回(2003年)から現行の18人以内に変更された。一方、地方大会の人数は各都道府県高野連などの運営側が決めており、そのほとんどが20人となっている。

悔しさを胸の奥にしまい、サポートなどに汗を流す埜川(左)と佐藤=堺市

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