被爆の語り部、私が引き継ぐ 47歳障害者の挑戦

 「日の出と夕日が嫌い」-。広島の被爆者から異口同音に聞いた言葉が、タクシー運転手の加藤和之さん(47)=横須賀市鴨居=は忘れられない。

 朝と夜の訪れを告げるその光すら、被爆者にとっては忌まわしき記憶を喚起させるものだった。「原爆がさく裂した瞬間とあまりにも似ていて、だから見たくない」

 この悲痛な言葉に、加藤さんが触れたのはことし6月。参加する広島市の「被爆体験伝承者養成事業」での研修会だった。

 被爆者の思いを受け継ぎ、代わってその体験を語り継ぐ「伝承者」を育てるため、同市が2012年度から始めた。3年間で、被爆の実相を学び、体験を聞き取り、講話実習を受けた上で、広島を訪れる修学旅行生や訪日観光客らに、73年前に起きた惨状を伝える。既に117人が活動しているという。

 事業の背景にあるのは、被爆者の高齢化だ。厚生労働省によると、ことし3月末現在、およそ15万5千人の被爆者の平均年齢は82・06歳。継承したくても、もう体が許さないお年寄りも確実に増えている。

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 いまは横須賀市内に住む被爆者も、例外ではない。

 「語り継ぐ活動は、ほぼ私一人。他にやれる人がもう、いませんから」。そう明かすのは同市内の被爆者でつくる「なぎさ会」の村山恵子さん(79)。

 長崎市に原爆が投下されたとき、6歳だった。50キロ以上離れた島原市の親類宅に母と生まれたばかりの弟と3人、身を寄せていた。

 2日後。母に連れられ、長崎市に戻った。爆心地近くの駅で降りると、体を包帯でぐるぐる巻きにされ、道路に寝かされた無数の人々。「水…」、傍らを通る村山さんらに追いすがるように聞こえてくるうめき声。「幼心に、地獄かと思いました」。弟は15歳で亡くなった。

 「二度と悲劇を繰り返さないために」。村山さんが自らの体験を語り始めたのは15年ほど前。現在も年10回ほどの講演をこなす。それでも、寄る年波には勝てない。だからこそ、若い世代に期待する。「何もいいことがない戦争を二度と起こさないため、悲惨な体験を語り継ぎ、知ってほしい。そして戦争のない世の中にしてほしい」

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 語り部への道を歩み出した加藤さんは、義足と車いすで広島に通っている。

 31歳の時、指定難病の「先天性血液凝固因子障害」を発症。40歳で、左太ももの半分から下を失った。

 「障害者が平和を語る。しかも車いすで広島に3年間通ったんだ、と。ハンディがあるからこそ、インパクトは強いはず」。明るく言ってみせる。そうまでして被爆者の言葉を伝えようとするのは、被爆者の誰もが研修で語り掛けた「私たちの声を残したい。だから伝えてほしい」との言葉。そして、そこから生まれた強い危機感からだ。「10年したら被爆者の多くは亡くなる。その時に伝える人がいないと、日本はまた戦争の道に進む」。3年後、伝承者となり、県内の学校に通う子どもたちに話して聞かせるのが、今の目標だ。

広島平和記念公園にささげる折り鶴づくりにも力を入れる加藤さん(右)。「鶴を折ることで平和や日本で何が起きたかを考えてほしい」=横須賀市内

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