「日本に帰れるなんて思っていなかった」 旧満州で玉音放送 ソ連侵攻、家族と生き抜く 長崎の洋画家・米村昭彦さん 奉天から被爆地長崎に生還

 「日本に帰れるなんて思っていなかった」―。日本が支配していた旧満州(現在の中国東北部)南部の奉天(現・瀋陽)で、洋画家の米村昭彦さん(88)=長崎県長崎市油木町=は終戦を迎えた。当時15歳。その後、ソ連軍が侵攻した現地で家族らと生き抜き、約1年後に長崎に帰還した。長崎の地元作家らが平和を発信する草の根のアート系イベントを今月展開している「長崎平和アートプロジェクト(ナヘア)」の代表。戦争体験を原点に「戦争、原爆のない21世紀を」と訴える。

自宅アトリエで制作に当たる米村昭彦さん。15歳の時、旧満州で終戦を迎えた=長崎市油木町

 1929(昭和4)年、米村さんは母の実家がある長崎県長崎市で生まれた。3年後の32年、日本は、かいらい国家の旧満州を建国。現地を実効支配し、経済開発や北部の開拓のため数多くの民間人が日本から移住した。
 県内で小学校教員をしていた父も、奉天の日本人学校に勤めることになった。34年12月、米村さんは5歳のとき両親、弟の4人で満州へ。その後、現地で弟1人と妹2人が生まれる。37年、日中は全面戦争に突入。41年には太平洋戦争が始まる。

 父は満州東部の開山屯の学校勤務などを経て41年、日本の国策会社、南満州鉄道(満鉄)の関連会社に転職。翌42年、米村さんは奉天で中学に進んだ。
 「中学生は『国のために早く死ぬのが良いこと』と教わっていたけど、私はあまりまじめじゃなかった。ただ、理屈の上で軍国主義を否定するという考えは全然なかった。世の中全てが戦争に向かって動いていた」
 満州でも中学3年から学徒勤労動員があり、44年は春と秋の2回、満州東部の開拓団を手伝った。45年春から授業がなくなり、動員は毎日に。しかし、日本本土が度重なる空襲で甚大な被害に見舞われている状況に比べれば、まだ平穏だった。
 45年8月15日、奉天の工場で、勤務中に玉音放送を聞いた。「良く聞こえなかったが、戦争が終わったのは分かった。悲壮な気持ちにはならなかった。この後、どうやって生きたらいいのかという思いだった」

 比較的余裕のあった奉天での暮らし。それは、敗戦を境に一変する。

1940年ごろ、満州東部の開山屯で暮らしたころの家族らの写真。米村さん(左から4人目)は小学5年くらい。「このころは幸せだった」(米村さん提供)

 ■ソ連侵攻、家族と生き抜く

 1945(昭和20)年8月9日、旧ソ連が参戦。日本からの開拓団が多数入植していた満州北部などに国境を越えて侵攻してきた。現地の日本軍は崩壊。ソ連軍は民間人を蹂躙(じゅうりん)し、追い立てるように進軍。同19日、米村昭彦さん(88)一家ら多くの日本人が残留している奉天に、ソ連軍は至った。
 記録では9月、ソ連軍は奉天で旧日本兵の強制労働への駆り出しを行い、略奪や暴行も頻発したとされる。米村さんの知人も強制連行に遭った。「前の家に住んでいた渡瀬さん、父の元教え子だった田脇も連れて行かれた」
 「田脇」は本県出身で、汽車でソ連へ連行される途中、国境手前で脱走し、追っ手を逃れて命からがら奉天へ逃げ帰った。米村さんは「夜中に田脇は私の家にたどり着いた。顔は真っ黒で服はシラミだらけ。急いで風呂を沸かして入れた」と記憶をたどる。「田脇は銃を二つ持っていて、金を持っていそうな中国人を脅して金を取っていた。僕にも銃を二つくれたので、弁当箱に入れて隠していた」
 街では粗暴なソ連兵が放つマシンガンの流れ弾や、日本人同士のトラブルなどで日常的に死者が出ていた。「朝、通学していると、よく遺体が放置されていた。夜中に酔ったソ連兵が押しかけてきて、短銃とナイフを突きつけられたこともあった」と振り返る。

1944年秋、学徒勤労動員先の満州東部・黒台(現在の中国黒竜江省)付近で働く、14歳の米村さん(右)と友人(米村さん提供)

 米村家はまだ住む家があり、食糧も入手できた。だが、路上生活を送る困窮した元開拓民や旧日本兵らは多かった。厳しい冬が訪れ、父はそうした人々の面倒をよくみた。「うちで餅をついて、みんなで売った。連行された渡瀬さんの奥さんも餅を売りに出ていた」。力を合わせ冬を乗り越えた。

 満州からの日本人引き揚げは、46年5月のソ連軍完全撤退後に本格化した。「ある日突然、日本に帰れるから3日後に集まれと指示があった」。だが米村さんは、父に「自分は残る」と言った。当時、原因不明の発熱が続き、寝込むことが多かった。「足手まといになる。死んでもいいと思った」。父に「ばかなことを言うんじゃない」と怒られた。

 ■奉天から被爆地長崎に生還

 中国遼寧省・葫蘆(ころ)島を経由し、引き揚げ船で博多に着いたのは46年7月。発熱は船上で治った。家族7人は全員無事。長崎に着き、原爆で壊滅した浦上の風景を目にした。「なんにもなかった。『これが戦争だったのか』と思った」

 長年、古里の美術振興に尽くした地元美術界の重鎮。10年ほど前に表舞台を退いていたが、請われて「長崎平和アートプロジェクト(ナヘア)」代表に就いた。
 「日本は70年間平和というが、果たしてそうか。中近東や北朝鮮は第2次世界大戦の続きのよう。原爆もまだ造られている。21世紀をどんな世界にするか、みんな考えんばさ」

戦争、原爆のない21世紀を」と語る米村昭彦さん=長崎市油木町

© 株式会社長崎新聞社