遺影が映す被爆者の人生 広島の平和記念館が収集、公開

 73年前に原爆が投下された広島では6日の「原爆の日」以外にも、戦争の悲惨さや愚かさを次世代に伝える事業や催しがいくつも行われている。広島市中区にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は通年で、原爆死没者の遺影などを集めており、犠牲になった一人一人の人生を刻んでいる。

 照明が少し落とされた物静かな「遺影コーナー」。縦約60センチ、幅約1メートルのスクリーンが12面並び、一人一人の遺影と名前を約1時間半かけて映し出す。

 近くには検索できるタッチパネルが置いてあり、名前を入力すれば、原爆死没者の性別、被爆時の年齢、職業、状況、被爆場所などが表示される。

 同館は、原爆死没者を追悼し原爆の惨禍を継承するため、2002年8月に開館。被爆体験記や証言映像の収蔵のほか、原爆死没者の氏名や遺影の収集・公開などを進めている。登録された氏名と遺影は今月2日現在、計2万2605人に上るという。

 広島市安佐北区に住む会社員津田和昌さん(59)はこの夏、同館に足を運んだ。14歳の時に広島で被爆し、今年7月13日に87歳で亡くなった母の昌(さかえ)さんの遺影を登録するためだ。

 昌さんの被爆体験記によると、1945年8月6日は「原爆ドームの500m北にある」住居から学徒動員で通っていた工場に向かい、電車に乗っていた。体験記には広島電鉄廿日市駅手前で「ピカッと光り」と記している。

 広島市外にいた昌さんは直接被爆を免れたが、同居していた姉の光江さんは原爆投下から15日後に亡くなった。18歳だった。

 橋から川に飛び込むなど姉は活発な性格で、昌さんは生前「よく遊んでもらった」と懐かしそうに話していた。ただ、時折「家族がばらばらになった。本当は皆で仲良く生きたかったのに、それを戦争が奪った」とも語っていた。

 津田さんは、姉妹2人で撮影された写真を拡大してアルバムの一番最初のページに置き、姉との思い出を大切にしていた母の姿を覚えている。「想像するしかないが、平和に対する母の思いは強かった。そうした思いを母の手記や遺影を見た来館者にも感じてもらい、自分自身、これからも忘れないようにしたい」と力を込めた。

 広島市平和推進課によると、広島に落とされた原爆によって死亡した人数は正確には分かっていないが、1945年末までに14万人が死亡したと推計されている。同館の叶真幹館長(63)は「14万は単なる数字でなく、被爆者一人一人。写真を見て一人一人が違う体験をしたその人生を見て、原爆がどんな影響を与えたのか理解を深めてほしい」と話している。

母の被爆体験記を、父の和彦さん(右)と一緒に見る津田和昌さん=6日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

© 株式会社神奈川新聞社