もっと大きなクラブに行けたのに…「残留」を選んだ11名の選手たち

『Planet Football』は、「もっと大きなクラブに移籍することが出来たのに、それを選択しなかった11名の選手」という記事を掲載した。

実力からみればビッグクラブにいてもおかしくないのに、何らかの理由によってそれを拒否する選手も世の中には多い。

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そんな選手たちの代表的な例とは?

ウィルフリード・ザハ

若くしてマンチェスター・ユナイテッドに引き抜かれたものの、そこで失敗を経験したザハ。その後古巣クリスタル・パレスに戻り、著しい成長を見せている。

プレミアリーグのTOP6以外のクラブに所属する選手の中では、間違いなくトップクラスだ。今夏も移籍が噂されたが、彼は自分を救ったクリスタル・パレスと5年契約を結ぶことに決めた。

ジェイミー・ヴァーディ

レスター・シティを驚きのリーグ優勝に導いた叩き上げのストライカーは、その後アーセナルに移籍するという噂が流れた。契約解除条項を満たす額だったと言われる。

ヴァーディは世界最大のクラブでプレーする最後のチャンスであり、アマチュアからの驚異的な成り上がりを完遂できるところであったが、彼はレスター・シティとの契約を延長することを決めた。

盟友エンゴロ・カンテはチェルシーに行って2年連続のタイトルを獲得したが、ヴァーディは残留を後悔していないと語る。

ルーカス・ラデベ

南アフリカの英雄的なセンターバックは、リーズ・ユナイテッドの伝説的な存在。ネルソン・マンデラ氏も「英雄」と称する忠実な男は、クラブの歴史上最高クラスのDFとして評価される。

彼はライバルであるマンチェスター・ユナイテッドに移籍することを拒否したことで、リーズのファンから大きな信頼を受けることになった。

彼は地元メディアの『Supersport』に対して「私は赤いものを身に着けることはなかった。赤いバラでさえもね。白いバラだけだ」と語っている。

マット・ル・ティシエ

トッテナム、チェルシー、マンチェスター・ユナイテッドから注目を集めていたイングランドの伝説的ストライカーは、そのキャリアの全てをサウサンプトンに捧げ、降格すらもともに味わった。

「私は中型の池にいる大きな魚であることを楽しんでいたんだ。多くのファンが自分を見に来ている。私が何をするかを見に来ているという立場をね」

サウサンプトンの旧競技場であるザ・デルで最後のゴールを決めたのは、彼のキャリアの報酬であろう。

ジュニーニョ・パウリスタ

彼は来て、征服して、そして去っていった。それから再び戻ってきた。ジュニーニョは2002年のワールドカップを優勝した名選手だが、ミドルズブラで3シーズンを過ごした。

2004年にはリーグカップで初めてのタイトルを獲得し、欧州の大会に出場する資格を得た。ジュニーニョはミドルズブラのレジェンドになった。

フランチェスコ・トッティ

トッティのキャリアは論じることすら難しい。故郷のクラブで25年を過ごし、ローマ最多ゴールを記録し、スクデットを獲得し、ワールドカップも優勝し、数千のサポーターから崇拝された。

彼は2003-04シーズンにレアル・マドリーからのオファーを断ったことで知られているが、チャンピオンズリーグとバロンドールを獲るという夢を持ったことも明かしている。ただ、それを断ったことを後悔していない。

「最終的には、求めるものは全て持っていた。他の場所でトロフィーを獲得するよりも、愛と情熱が重要だったんだ。

私はローマに101%を尽くしてきた。ローマは自分という存在や個人的な問題、日々の生活を超えたものになっていたからだ。ローマは全てなんだ」

アントニオ・ディ・ナターレ

25歳までトップリーグにデビューできなかった選手が、ウディネーゼでクラブ史上最高のストライカーになった。「これほど文化的なインパクトを残した選手はいない」とも言われた。

「これは人生の決断だった。ウディネでいい感覚を持っているし、会長の家族も常に良くしてくれている。それはお金よりも価値がある」

キャリアを通して多くのクラブから関心を受けたディ・ナターレであるが、12シーズンをウディネーゼで過ごし、227ゴールを決めて引退した。

ポール・ガスコイン

ガスコインが1988年にマンチェスター・ユナイテッドへ移籍することを決断していたら、彼の人生は大きく変わっていたかもしれない。アレックス・ファーガソンはアルコール依存症のポール・マクグラスと対立していたという現実もあるが…。

とにかく、トッテナムがガスコインの家族に家と日焼けマシンを提供したことで彼はホワイト・ハート・レーンへ行った。

EURO1990でのパフォーマンスのおかげでガスコインはヨーロッパ最高のエキサイティングな選手となったわけだが、引退後は…。彼は常に反実仮想の物語を提供してくれている。

ジェイ=ジェイ・オコチャ

ナイジェリアからイスタンブール、パリ・サンジェルマン、そしてボルトン・ワンダラーズへ。オコチャのキャリアはかなり変わっている。

トリッキーな攻撃的MFはサム・アラダイス監督が必要とするタイプではなかっただろうが、「クラブの最高の選手だ」と賛辞を惜しまず、その下でオコチャは繁栄した。

間違いなく彼は他の大きなクラブに移籍することが出来ただろう。しかし、ファンにとってのレジェンドになることができ、ピッチの上で自由を得ることは出来たはずだ。

アラン・シアラー

シアラーは、2回マンチェスター・ユナイテッドの誘いを断ったことで知られる。最初は21歳の時で、サウサンプトンからブラックバーンへと移籍することを決めた。そして、少年時代から愛していたニューカッスルへ移籍するときも。

彼はブラックバーンでプレミアリーグ優勝を経験し、ニューカッスルで歴史的なストライカーとなった。

マンチェスター・ユナイテッドのFAカップ優勝を2度決勝戦で眺めることになったが、彼は正しい決定をしたと主張している。

「もちろん、私はマンチェスター・ユナイテッドに移籍することに誘惑されたが、あらゆる決定を後悔していないよ。

ブラックバーンで魔法のような時を過ごし、リーグにも勝った。故郷のクラブでプレーするという夢も叶えた。永遠に抱き続ける思い出と、誇りに思える記録を作った」

ディエゴ・マラドーナ

世界最高の選手という地位を守った男だが、ヨーロッパ最大のクラブでプレーしたことは多くない。

1982年のワールドカップのあとにバルセロナへ移籍したが、足首の骨折や喧嘩、肝炎への罹患などを経験し、2年後にナポリへと移籍することになった。

しかしそこで彼は最高のキャリアを作り出した。それまで全く優勝したことがなかったナポリを2度のスクデットに導き、1986年にはアルゼンチン代表を世界の頂点へと引き上げた。

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