コンテクスト・イズ・キング 〜キュレーションは終わらない

By 中瀨竜太郎

ウェブが壊した「参入障壁」」に始まるこれまでの記事群で見てきた「ウェブ地獄」ともいうべき惨状。ユーザー体験を停滞させ、メディア事業者を低収益性の底に向かわせているその難問を解くカギは、どこにあるでしょうか。


 完全自由市場のウェブでは、

  • 供給過剰になり、収益性が下がる。
  • 競争心理に入り込んで漁夫の利を得る巨人が外部に出てくる。
  • 複雑化し、仲介する事業者が多層的に増えて手数料を取られる。

…という構造に原理的に入り込んでいってしまう、と書いてきました。問題の起点は、過当競争にある、ということです。そうであれば、過当競争を避けることが問題解決の本質的なカギになります。

 現在は、メディアにかかわる誰もが自らの利益を最優先して意思決定しており、それは端的には「ウェブサイトのPV」という誤ったKPIの追及として表れていますが、このKPIを一度そっと脇に置き、お互いが全体の利益つまり産業収益最大化のために協力することが必要です。
 メディア自身がこの市場を「メディア同士が協力し合うゲーム」に変えることで、大手ディストリビューターやアドテク事業者に上澄みだけを持っていかれずに済む、新しいルールメイカーになれる。この認識が不可欠です。

 では、どのような設計にすれば、実際に協力行動が発生し得るのでしょうか? それにはまず、今メディアがユーザーに提供できるもっとも大きな価値とは何か、という認識を共有する必要があります。

コンテクストこそが王様

 ユーザーにとって現在最大のメディア価値、それは「キュレーション」です。

 メディア市場では一般的に「コンテンツは王様だ」と言われてきました。確かに、コンテンツがなければ何も始まりませんが、ウェブは「伝えたい」という人間の根源的なメディア欲求を反映してコンテンツが無限増殖する構造を持つため、あふれかえったそのコンテンツを「わたしの文脈(コンテクスト)にあわせて絞り込んでくれる」価値が大きく高まっています。「アグリゲーターの流通支配 “通信社化”する既存メディア」に示した通り、コンテンツをかき集めて整理し、伝えることにだけ特化したプレイヤーがメディア市場で圧倒的な支持を得ていることを考えれば、「コンテクストこそが王様」になっていると考えることが妥当だと言えます。

  • コンテンツよりもコンテクスト
  • クリエーションよりもキュレーション

が、今後メディア活動の成功を得るためにますます重要になる ── この理解を共有することがまず、メディア自身の主導権で新しいゲームを始めるスタート地点だと考えています。

〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』(NHK出版)にも、キュレーションの価値が増大することへの言及が何度も出てきます。

毎日のように爆発的な数のものが作られる中で、見つけてもらうことはどんどん難しくなっていく。
(中略)
そうしたガイドにどんどんお金を払うようになっているのだ。

広大な万物のライブラリーは、狭く限られたわれわれの消費習慣をはるかに凌駕していく。こうした広野を旅するには道案内が必要だ。

本当の持続的な経済成長は新しい資源から生まれるのではなく、すでに存在する資源を再編成することでその価値が上がり、それで達成されるのだと言う。成長はリミックスから生まれるのだ。

これから30年の間に生まれる最も重要な文化的作品や最も強力なメディアは、最もリミックスされたものだろう。

あらためて「キュレーション」とは何か

 ここで、私たちが使う「キュレーション」という言葉の意味について共有しておきます。

 日本ではこれまで、「1億総キュレーター時代へ」というキャッチフレーズ(ITmedia NEWS)で躍進した「NAVERまとめ」や2017年の「WELQ」問題によって、以下のような定義で「キュレーション」が理解されてきました。

「ネットの情報を集めて、読みやすいように再構成」という、そもそものキュレーション

しかし、このようなキュレーションの定義は誤りであることが以下のように指摘されており、私たちも以下の考え方に沿ったかたちで「キュレーション」という言葉を使っています。

そもそも「キュレーション」というのは、博物館や美術館、図書館などで、資料を鑑定し、さらに、どのアイテムを所蔵し、どのような切り口で所蔵すると、その館らしいのか、そうしたことを企画して実行する役割です。
(中略)
本来、ネットにおけるキュレーションも、大量に増えすぎたコンテンツのなかから光るものを見つけ、それを整理して提供することで、ネットに新たな価値を提供するものだったはずです。決して、あちこちからコンテンツの断片をコピペしてきて、ちょっと変えてバレないようにして、検索エンジンで評価され上位表示されるようにつなぎ合わせることがキュレーションではないのです。

 キュレーションとは、切り口にあわせてゴッホとピカソの作品を並べて見せることであり、ゴッホとピカソの作品から勝手に部分を切り貼りして別の作品を作るのはマッシュアップやMADというのが適切です。

 ただ、定義をめぐる宗教論争は不毛ですから、私たちは一つの視点を提供したいと思います。

 それは、「まとめ」ではコンテンツページの供給が増えてしまうということです。コンテンツとそのページに付随する広告枠の供給過剰を解決しなければ希少性、収益性の問題は解決しません。
 自らのコンテンツを作り過ぎず、多様な価値観に寄り添うコンテクストを添えて誰かのコンテンツを届けることの重要性を評価することで、問題を構造部分から解消し、収益性改善につなげられるからこそ、キュレーションには価値があるのです。

 何年か前に、とある県紙の方がノアドットに賛同しつつ、以下のような発言をされていました。

キュレーション、キュレーションと騒いでいるが、何も新しいものではない。地方紙こそが昔からキュレーションをやり続けてきた元祖だからだ。

まさにその通りで、地方の各県紙・ブロック紙は、地ダネは自分たちの足で取材し、中央や海外のネタは通信社から仕入れて、日々の紙面を編成してきました。
 それではなぜ、その元祖である県紙・ブロック紙が、キュレーション隆盛の現代にユーザーから直接訪問してもらえるメディアの地位を失い、最下層にあるコンテンツページへのヤフーやGoogleからのたまたまの流入によるPV増に多くを頼り、ユーザーとのエンゲージメントを失いつつあるのでしょうか? かつて、

「インターネットは地方紙を配達の軛から解き放ち、全国紙となれるチャンスを広げた。テレビにつぐ新しいメディアの誕生だ」

とも言われたような現実は2019年現在まだ実現しておらず、むしろ全国紙ですら大手ディストリビューターに依存しながらデジタルメディア事業を推進せざるを得ない状況になっています。

 それは、キュレートする対象としているコンテンツの幅(バリエーション)が、多様化するユーザーニーズに十分に応えられるほど広くないためです。
 情報は爆発的に増えても、ユーザーの可処分時間は変わりません。ユーザーは限られた時間のなかで、ワンストップでより効率的に、自分の文脈にあったコンテンツを並べてくれるメディアを支持しています。「あれはタブロイド」「あれは週刊誌」「あれはウェブメディア」という分断や排除がユーザーの文脈ありきであれば高い評価を得られますが、それが供給者論理の分断であった場合にはユーザーは去ってしまいます。

 キュレーションの前段には、読者の多様で移り気な文脈に柔軟にアジャストできるよう、コンテンツの取り扱い量を増やすことがまず必要、ということになります。

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