〝平成最後の夏〟
そう言われても、なんとなくぼんやりしてしまうのはなぜだろう。
この30年近く忙しく生きてきた私にとって「もう終わってしまうの?」というぼんやりした思いしかない。
まあいつものように、2018年の夏は今年だけ。二度は来ない夏なんだけど。

いつになくプライベートな時間を大切に過ごした今年の夏。
鳥のさえずりに耳を傾けたり、様々な表情の海を眺めたり。
海を望む婚家の軒先に、江ノ島あたりから飛んできたイソヒヨドリの鳴き声で目覚める夏の朝。毎日が新鮮でみずみずしく初々しい夏の日々。
家族以外の友人知人にはほとんど会わず、しかし、家族という集合体ほど怪しげで謎に満ち溢れた集合体もいないと、しみじみ考察した夏でもあった。
海にぽっかり浮かんで空を仰いでいると、ここがどこなのか、いっそどこでもいいじゃないかと、思えてくるほど。
でもそこは間違いなく、伊豆半島の海であり、三浦半島の海であり、真鶴半島の海であったりするのだ。
半島は私を魅了する。
ラテン語でペニンシュラという半島。
語源はいろいろあるようだが、とにかく半島にはひとを魅了する何かがある。

そんな半島巡りをした今年の夏。
三浦半島をぐるりと巡って、何十年ぶりに逗子海岸で泳ぐ。
珍しく海は澄んでいて、海面から裸眼で魚が覗けるほどだった。
泳いだり、浮かんだり。浜でまったり。
西瓜割りの西瓜を頬張り、ふたたび海に浮かぶ。
そろそろ上がろうかと思ったその瞬間、何かが私の手首を撫で、ビビビと痛みが走った。四角い傘をかぶり長い4本の触手をゆらゆらとたなびかせたむろっている。
アンドンクラゲだ。
あたりを見回すと、海から吹く南風にのって流れてきた奴らにしっかり囲まれていた。
「うわっ!」
慄いてそろりと海から上がったが、なぜだか悪い気分でもなかった。
夏の勲章を貰った子どもの気分だ。
そういえば、子どもの頃はあんなに海で泳いでいても、クラゲに刺された記憶がない。

そんなふうに子ども時代に家族で過ごした夏の半島の思い出。
三浦半島を後に湘南、西湘、そして伊豆半島東側135号線をゆく。
伊豆は思い出深い。
西伊豆、中伊豆、南伊豆、東伊豆。
伊豆半島は子どもの私にとって、南海の孤島のようにエキゾチックで魅惑的な場所だった。
まずは、伊豆の入り口とも言われる真鶴半島。
先端の照葉樹林は魚付き林と呼ばれ、
岩礁でサザエやアワビをとる海女さんの姿も。
真鶴の海はちょっと泳ぐともの凄く深くなる。
魚の種類も豊富で、小さな漁港には干物屋が並び、毛並みのいい猫がいたりする。

以前は軒を連ねていた干物屋だが、現在は手造りで営む店が3軒だけになったと伺った。
イカと魚の干物の図柄を彫った包装紙が愛らしい、フランスの画家ニキ・ド・サンファルのポスターがなぜか目立っていた「青貫水産」。
創業は明治10年という歴史のある佇まいの「魚伝」。
真鶴漁港すぐにある地物の種類豊富な「高橋水産」。
一枚一枚丁寧に作られた干物は、魚の身の味が口中いっぱい広がる。
海と太陽の味だ。
家族への手土産に大変喜ばれ、珍しくリクエストがきたほどだった。
135号線沿いは干物屋街道といわれるほど干物屋の看板だらけ。
のらのらとのら猫みたく車で走っているだけでも、結構楽しみな干物屋天国の伊豆。
干物屋のありがたみがわかる大人になったということだろうか。
真鶴の帰路、湯河原の温泉街を歩く。
子どもの頃に遊んだ湯河原のスマートボール場は既に廃業していて、射的場が2軒残っていただけ。
観光客の姿もまばらで、なんとなく寂しげな街並みになっていたが、なんだかそれも時の流れだなあとしみじみ眺めてみる。

川奈へ行く途中 『大巨獣ガッパ』(1967年 日活)の舞台にもなった熱海城が見えてくると、いつも素通りしていた熱海に立ち寄りたくなった。
今年で60周年のアタミロープウェイに乗って熱海秘宝館へ。
エロと熱海のカップリングは特撮映画にもつながり、鄙たサンレモ風なリビエラ海岸ちっくな風景や、太平洋の雄大な景色も拝めて、改めて感慨深い観光地だ。

そして伊豆といえば、ロケ地の思い出。
2時間ドラマのロケの聖地とも呼ばれる伊豆半島。
城ヶ崎の崖で告白をしたり、修善寺、天城峠、石切場、下田、などなど。
どこで殺人してどこで死んだか、何がなんだか記憶が曖昧になるくらい、伊豆ロケ三昧の2時間ドラマ。
また、南海の孤島に見立てられる伊豆は、特撮映画の聖地でもある。
さらに、真鶴の岩礁の海女さんじゃないが、映画『タンポポ』(1985年 伊丹十三監督)、『百合子ダスヴィダーニャ』(2011年 浜野佐知監督)も伊豆半島でロケが行われた。
半島巡りを堪能して、帰京。
低い空の下、いつになく堂々としている東京タワー。
夕立に濡れる都会の街並み。
夏の終わりの都会といえば、映画館。
夏休みも終わる頃、映画館の暗闇にひとが集まって、みな同じ方向を向いてスクリーンを見つめている、そんな光景が昔から好きだ。
それは夏休みの終わりによく映画を見に行った記憶からかもしれない。
最近も新作映画を3本ほど見て、初めて映画に出た頃のような感覚に揺さぶられる衝撃が走ったことも、“平成最後の夏”2018年夏に相応しい出来事として刻みたい。
三宅唱監督『きみの鳥はうたえる』(9月1日~公開中)。あんなふうに夏とじゃれあった(刃を隠し持つような)若さがついこないだまであったような。
カルダーのモビールのように複雑な彼女と彼と僕の関係は、愉しげだったり、涙したり。映画における男女3人の関係性はいつだってスリリングで面白い。いつまでも見ていたくなる映画だった。
濱口竜介監督『寝ても覚めても』(9月1日~公開中)では、あれ? あれれ?とめくるめく数々のショットに、まるで初めてのような、新しい発見があった。
デビュー間もない、自分がカメラの前で演じた映画のあれこれの感覚がよみがえる私だけが体感した不思議体験。
全く新しい映画を見ているのにもかかわらず、眠らせていた記憶が視覚を通じて呼び覚まされたとでもいうのか。なんとも筆舌に尽くしがたい悦びの渦巻きとでもいおうか。
まさか東出昌大という俳優が、ある映画の中で誰かを演じると必ず炙り出される異星人的な何かに、ヤラレている自分がいるだけなのか。
彼が出ていた某朝ドラからずっとその宇宙人ぶりが気になって以来、彼を通じて宇宙から何か新しいメッセージが放たれるんじゃないかと、ずっと気になって仕方がない。
まるでネバダ州の砂漠で、発光しながら飛来する宇宙船を待つ老婆のように、私はずっと新しい何かが舞い降りてくるのを待っているのだ。
今作を見て、その予兆を感じられたことも嬉しかった。
鈴木卓爾監督『ゾンからのメッセージ』(9月29日~ポレポレ東中野追加上映、10月13日~横浜シネマリン上映)を見たときの衝撃。
リアルとフィクションの“際(きわ)”という「存在」そのものを描く、特筆すべき面白さ。
映画の背景にいつもモヤモヤと描かれている「ゾン」と呼ばれる何か。
シネカリグラフィーという、フィルムに傷をつけて映像を紡ぎ出す技法で作られた「ゾン」はまるでタルコフスキーの『ストーカー』のあの「ゾーン」のようでもあるが、どこか守られている「存在」そのもののような、不思議な「ゾン」のあの〝裂け目〟。
実際、8月末に見た積乱雲の雷や豪雨や海のうねりを重ねて、「ゾンだ!」と私の夫は騒いだし、一万年後に行ってしまった沖島勲監督が光速よりも早くやってきて、「ヤメトケ!」というあの世の声が聞こえてきそうだったり。
実に不思議な映画体験だった。
こうして、映画の新しい波は、ひたひたと満ちてゆく潮のようにやってきている。
その現場を目撃した、“平成最後の夏”2018年の夏の終わりだったのだ。
つづく
