地元千葉で決めた2000本安打 ロッテ福浦が「最高の形」と笑顔を見せる理由

ロッテ・福浦和也【写真提供:千葉ロッテマリーンズ】

ロッテが千葉に来なかったらドラフト指名は…

 一瞬、時が止まった。3万19人の大観衆が息を飲む。鋭い打球が芝の上で跳ねたのを確認するとスタンドは総立ちとなった。大歓声に包まれながら背番号「9」は一塁を蹴って、二塁に向かう。一塁をまわった時の表情は少し笑っているように見えた。二塁に到達するとガッツポーズを見せた。

 9月22日のライオンズ戦(ZOZOマリンスタジアム)。千葉ロッテマリーンズの福浦和也内野手が史上52人目の通算2000安打を記録した。25年の歳月をかけてたどり着いた。1500安打を記録してからは9年の月日を要した。ようやく達成した偉業に、普段は表情を変えない男もさすがに笑顔だった。

「時間がかかってしまったね。もっと早く到達しないといけなかった。でも、本当にZOZOマリンスタジアムで達成できて良かった。千葉で生まれ、千葉の学校に行って、千葉の球団に入団させてもらった自分としては最高の形となった。何よりも本当に多くのファンの方に来ていただいた。それがうれしかった」

 これまで派手とは無縁の人生だった。93年ドラフトは64人中の64番目の指名。12球団で最後の指名選手だった。「スカウトの方は見に来てくれていたけど、指名されるかどうかは分からなかった」と当時を振り返る。

 だから、ドラフトの日は会見場で報道陣と一緒に指名を待つ通常のスタイルではなく、グラウンドで練習をしていた。学校関係者から指名を伝えられた時は実感が湧かなかった。周りからは「千葉の球団として最後にとりあえず千葉の選手を取っておこうということになったのかもね。ロッテが千葉に来ていなかったら指名されていないかもしれないよ」と言われたこともある。自分自身もそれに異論はなかった。

「92年にロッテが千葉に移転をした。移転2年目のドラフト。もしだけど、移転があと数年遅かったらプロに入っていなかったかもなあと思うこともある。今頃何をしていたかね。そういう意味では、本当に千葉の人間として千葉の球団に拾ってもらえたという想いがある」

 指名をされなければ静岡の社会人野球チームに進み、野球を続けることは決まっていた。ただそのチームは2年後に廃部。野球人生はどこで終わっていてもおかしくはなかった。背番号は支配下選手最大の「70」。アリゾナでの春季キャンプでは、選手で唯一、チームスタッフとの同部屋待遇。それらすべてが置かれている状況の厳しさを示していた。のちに2000安打を達成することになるその若者の思い出を当時の選手たちに聞くと、「福山雅治さんのモノマネが上手かったことしか記憶にない」と言われるほどである。

モノマネの上手い若手からの脱却 「幕張の安打製造機」へ

「キャンプのホテルで先輩の部屋に呼ばれて、『なにか面白いことをやってみろよ』と言われると、よく福山雅治さんの真似をしていたね。カラオケでも基本、福山雅治さん。最初にモノマネをしてから歌う。そのうちに先輩たちから『おい、いつものやってくれよ!』と言われるようになっていた」

 同じ「福」から始まる名字ということもあり、福浦イコール福山雅治の真似をする若手。当時のロッテではそれが定着していた。スワローズから移籍してきた内藤尚行氏(現野球解説者)も、移籍してすぐに若者の一発芸を目にした。「ギャオス内藤」の異名で知られ、スワローズ時代に一世を風靡したキャラの立つベテランも大ウケとなった。その記憶は鮮明に残り、その年のシーズンオフに内藤氏は知人のマスコミ関係者を通じて、福山雅治さんのラジオ番組の見学をセッティングしてくれた。先輩たちへのモノマネがキッカケで本人に面会する機会が実現することになるとは思ってもいなかった。

「福山さんは絶対に覚えていないよ。名も知らない若いプロ野球選手が見学に来て、『ファンです』と挨拶をさせてもらっただけだから。でも、うれしかったなあ」

 そんな若者は投手から野手に転向。長い年月を経て、いつしか「幕張の安打製造機」と呼ばれるまでに成長した。01年には首位打者を獲得。01年から06年までは6年連続3割をマークし、パ・リーグを代表する選手になった。

 たゆまぬ努力によるものだが、得意のモノマネも後押しする。ケン・グリフィーJr、イチロー、前田智徳、松井秀喜など、時間があれば一流打者の打撃の映像を見ては真似てみて、参考になることはないかと探した。その中で自分の打撃スタイルが確立されていった。だが、その日々は順風満帆とはいかない。07年に右脇腹を痛めると、腰痛、首痛とコンディションが万全とはいかない中での戦いを余儀なくされた。ただ気力だけは失わなかった。気力は努力を後押しした。悔いの残らない日々を過ごし、最善の準備の中で結果を地道に重ね、この時を迎えた。

同期入団の小野コーチ予言的中「二塁打で決める。そういう男だ」

「オレは二塁打だと思う。アイツには二塁打が似合う。そういう男だ」。2軍練習を終えベンチ裏に駆け付けた小野晋吾2軍投手コーチは、打席に向かう友の背中の見つめながら、そう言った。

 中飛、遊飛、四球で迎えた4打席目。マウンドには4番手として左の小川龍也が上がっていた。左対左。今季の長打率を考えても中前打、三遊間を抜ける左前打をイメージするところ。そんな中でここまでの25年間をともに歩んできた同級生は「この打席、二塁打で決める」と言い切った。外角へと逃げていくスライダーにバットを合わせると、打球は右横に落ちた。打球処理までまだ時間があった。だから、躊躇なく二塁を陥れた。最後は足から滑り込んだ。偉業は「右二塁打」で達成された。

 試合後、ZOZOマリンスタジアムの一室で行われた記者会見会場には100人を超す報道陣が集まっていた。ドラフト指名された時には記者会見場も用意されていなかった若者は、いつしか日本中の注目を集める存在となっていた。ファンへ、家族へ、そしてこれまで時間をともにしてきた監督、コーチ、選手、スタッフの仲間たちへの感謝の言葉を並べた。最後に次なる目標を聞かれた。キッパリと言い放った。

「今日、ZOZOマリンスタジアムで記録を達成してすごい歓声に包まれて改めて思いました。ZOZOマリンスタジアムで優勝を決めたい。井口監督を胴上げしたい。まだその夢が残っています。まだまだ、もっともっと打ってチームに貢献したい。そしてともに優勝を勝ち取りたい」

 小さな若者は大ベテランとなった。ただ物語は2000安打で終わりを迎えない。いまだ実現をしていないZOZOマリンスタジアムでの優勝。千葉で生まれ、育ち、安打を積み重ねてきた男は、千葉での優勝を次なる夢に掲げた。そのパーツの1つとなるべく、まだバットは置かない。誰もが想像をしていなかった成長の軌跡を歩んだ男は、次なるドラマに向かって走り出す。(マリーンズ球団広報 梶原紀章)

(記事提供:パ・リーグ インサイト)

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