第243回「秋は恋の季節」か......

ベランダの夜風も涼しくなってきた

秋の気配

あれだけ熱射だった重苦しい夏が過ぎ、いくつもの台風がやってきて、秋の気配が漂ってきた。秋は深々と茶色に染まってゆく。さらに秋は北風を含みながら人肌を恋しくさせる。温もりが欲しくなる。一人でいる時の心地よさと、一人でいることの心もとなさが同居し、私は深夜ひとりベランダに出て、ビールを片手にiPadから流れる音楽を聴き、過去の時間に立ち戻ることが多くなってきた。

70歳の恋に乾杯を!

もう老いがどんどん近くなっている。老人は老人の切実な夢を見ている。このままなんとなく歳をとって……そしてある日、心が震えるような、思わぬ恋の体験をする。私は「fall in love with………」に入り込んだ興奮した日々を追憶している。今から2年前になるが、あの時期、私は三回目のピースボート世界一周船(3ヶ月半の航海)で知り合った夫人に、完全に恋に落ちてしまった。この体験の記事の断片をネットや雑誌に発表すると、いろいろなメールが私のところに届いた。アクセスも1日1000を超えた。

「羨ましい限りです。私はもう70歳になるのですが、とてもそんな気は起きません。このまま結局、誰も愛することもなく人生が終わってしまうのはやはり悲し過ぎます」(70代/岩手/男性)「70歳になっても本格的な恋ができるんですね。とても勇気をもらいました」(30代/男性/東京)「70歳ってもう老人を通り越して仙人と呼ばれてもおかしくない歳ですよね。老人が恋をする。いいですね。ぜひこれを一冊の本にしてください」(62歳/女性/東京)「やはり必要なのは決起ですよね。もう人生は残り少ない。恋をするには自分の心を掻き立て、全てをぶん投げてもいいという覚悟と周りの誹謗から耐えることが重要と思います」(74歳/東京/男性)

デッキにて。当時の写真

夫の側にいたくなくってこの船に

(当時の日記より抜粋)

午後遅く、ロビーで海を見ながらうとうとしていると、船内のサークルの「聖書を読む会」とか「書道」とかで何回か顔を合わせる北海道の夫人が、しょんぼり座って海を眺めていた。見るとうっすら涙が浮かんでいる。

「お元気ですか?」と声をかけてみた。

「あなたとは、いろいろな場所でご一緒しますね、気になっていました。どうぞ座ってください」と言われ、海と潮風とコーヒを前にして私たちは二時間近くも話した。なんと彼女はこのピースボートに乗ったいきさつを、延々と息も切らずに話してくれた。このボートに乗っている女性では一番、気品がある女性だと思っていた。彼女が敬虔なクリスチャンでもありピアノの先生でもあることが、その品を確かにしていたのかもしれない。「夫の側にいたくなくってこのボートに乗った」と、ポツンと消えるような声が聞こえた。何回目かの浮気が原因らしい。「私、娘も息子も孫もいるんですけど、家にいるとどうしても夫に嫌味ばかり言ってしまう自分が嫌になったの。それでこの船に乗って少し冷却期間を置いて、いろいろ人生を考えてみようと思ったの」と言う。

日は海の彼方に落ちようとしていた。遠くに霞んで見えるインド洋のマレー半島の漁船に目をやりながら、彼女の目からポロポロと涙がこぼれていた。私は黙って息を止めて、彼女の表情をうっとり眺めていた。

「なぜそんな話、僕にするの」と聞いてみた。

「いろんなサークルで隣合わせになって、今の私の気持を一番解ってくれそうな人であるように感じたんです」

すらりとした横顔がまぶしかった。着ている服もセンスがある。私は自分のことはほとんど話さなかった。歳も60代後半か? ほとんど彼女が堰を切ったように話し通し

た。私はあまり美味しくない冷めたコーヒーを前に、ただただ彼女の聞き役に徹した。ただそれだけなのに、彼女は私の全身を支配し始めたのだった。

彼女のことが頭から離れない

夜、船内の映画館でダスティホフマンの「卒業」を見ながら、なんと、あの夫人のことを考えていた。「これってピースボートマジックなのか」と思った。映画が頭に入らない。

深夜、誰もいなくなった頃を見計らい、暗い海を見ながらバーでまた酒を飲んでいる。マラッカ海峡通過。ひとり最上階に行き、頭脳警察のPANTAに敬意を表してロックの名盤「マラッカ」を誰もいない深夜のデッキで大音量で流した。真っ黒な海の向こうに漁り火が見えた。イカ釣り漁船が煌煌と明かりをつけ、PANTAの名曲はそこに消えて行った。また、いつの間にか彼女のことを考えていた。

えっ、ヤバイ! これは恋に落ちたか! と驚愕した。

ひさしぶりに「恋をするっていうこと」について考えていた。もう恋をするっていう作業は忘れてしまっていたな、と苦笑した。更には旦那も子供も孫もいる老婦人だというのに。こんなプラトニックな恋は何十年ぶりなんだろうと思った。今すぐ彼女に会いたかったが、私は彼女の名前も部屋番号すら知らないことに愕然とした。酔っぱらうしかない。酔っぱらってキャビンの椅子の上で眠り込んだ。

「探すしかない。彼女を。」

1000人以上いる乗客の中から探すのは大変だと思った。でもとにかく、やみくもに探して会うしかないと思った。翌朝から私は一日中彼女を探し歩いた。……。

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