日英つなぐ慰霊碑の縁 100年前の撃沈船犠牲者悼む

第1次大戦末期、ドイツ潜水艦に撃沈された日本郵船の貨客船「平野丸」(日本郵船歴史博物館提供・共同)

 世界規模の初めての戦争だった第1次世界大戦の停戦から今年で100年。日本も英仏など連合軍側に付いて参加したこの戦争の末期、日本の民間船が英国西部ウェールズ沖でドイツ軍に撃沈され、漂着した遺体を地元住民らが手厚く葬っていたという史実を、英国西部ウェールズの地元歴史家が掘り起こした。「戦争の中で亡くなった方々が放置されているのは正しくない。何とか慰霊碑を再び建ててあげたい」。その温かい思いが実り、10月4日、現地で犠牲者を悼む慰霊碑の除幕式が行われた。事前の報道によって慰霊碑建立の計画を知った遺族が、住民たちに心からの感謝の気持ちを伝えに日本から駆け付け、100年前の惨事を縁に、期せずして日英両国をつなぐ交流のイベントとなった。 

わずか7分で沈没

 アイルランドに向かって突き出た英本土の半島の先端に位置する村、ウェールズ南部のアングル。ウェールズの中心都市カーディフから車で2時間半ほど走った田園地帯に小さな教会が立っている。13世紀に建てられたという古い教会の裏手が墓地になっている。

 撃沈されたのは日本郵船の貨客船「平野丸」。停戦のわずか約1か月前の1918年10月4日の早朝、英中部リバプールからアフリカ南端ケープタウンを経由して横浜港に向かう途中、ドイツの潜水艦の魚雷を受けた。当時ドイツ軍は連合国の民間船も攻撃対象としており、平野丸は米軍の駆逐艦に護衛された船団に加わっていた。

 英国人船長をはじめとする乗員は143人、乗客は97人の計240人が乗船していたが、わずか7分で船首部分から沈没。当時は日の出の前で薄暗く、強風で波が高かったという。米駆逐艦などの懸命の救助の結果、30人が救助されたが、乗員124人、乗客86人の210人が死亡し、犠牲者の遺体がアングル近くの海岸に漂着した。第1次大戦中の日本郵船の商船被害では最悪の惨事だった。記録では少なくとも20体が3カ所に埋葬され、うちアングルのセントメリー教会墓地には10体が手厚く埋葬された。教会の埋葬記録には「Shiro Okoshi」ほか氏名不詳の9人の記載がある。乗員名簿から船の給仕だった大越四郎さん(茨城県出身)とみられ、大越四郎さんの名前を記した木の墓標を写した古い白黒の写真も地元住民の手に残っていた。

「平野丸」が沈没し建立された木の墓標の古写真(アングルの住民所蔵・共同)

「人間として当然」

 その後、教会埋葬地にあった木の墓標は朽ち果て、その場所に日本人らが眠っていることを知る人は少なくなった。日本郵船社内でも第二次大戦後の混乱で詳しい資料は失われ、ウェールズの遠隔地に墓標があった記録は残っていなかった。

 同じ場所に新たに慰霊碑を再建しようと立ち上がったのが、地元郷土史家のデービッド・ジェームズさん(80)だ。子どもの頃から父親に日本人らがそこに眠っていることを聞かされてきた。入り組んだ海岸線を持つアングル一帯は、沈没船の遺体が流れ着くことが多く、地元では犠牲者を手厚く葬ることが伝統だった。

 第二次大戦後、徴兵で英陸軍に加わり、ベルリンやリビアに派遣された経験を持つジェームズさんは、戦争犠牲者の墓標が朽ち果てたまま放置されているのは「正しくない」と考えた。第2次大戦では日本と英国は敵として戦った。それなのになぜ、という問いにこう答えた。「われわれは皆、同じ人間。日本人も英国人もない。ここに眠る人たちには家族もいて、幸せな生活が送れたはず。人間として当然のことをしているだけだ」。

 地元住民で募金を始め、新たな慰霊碑建立を計画。それを日本郵船に知らせ、協力を求めたのが去年の2月のことだった。日本郵船はジェームズさんからの連絡に「洋上で遭難した場合、形見の品が遺族に戻ることすらまれなのに、地元の方々の温かい思いに深く感謝している」とコメントした。

名乗り出た遺族

 「祖父山本新太郎が平野丸に乗っていました。教会の埋葬記録に山本の名前はありませんでしたか」。ジェームズさんが慰霊碑建立に奔走していることを5月に報じた共同通信配信記事を目にした東京都小金井市の市民団体代表、中村良子さん(72)から筆者の私に問い合わせがあったのは6月のことだった。中村さんの一族は、海軍の会計担当将校として、欧米事情視察の帰路、たまたま平野丸に乗り合わせた山本さんの葬儀などゆかりの写真を集めたアルバムを大事に保存しており、その中にアングルの地元に伝わる古い墓標の写真と奇しくも全く同じものが残っていたのだった。

 当時の墓標や、新しく建立される慰霊碑は厳密に言えば、アングルの教会裏に埋葬された10人についてのものだ。名前が判明しているのは一人だけ。山本さんがそこに眠っている保証はない。それでも中村さんは「歴史に埋もれていた平野丸」の犠牲者慰霊碑をあらためて建立しようという地元の人々の温かい思いに感激、一言お礼を伝え、そして近くで眠っているだろう祖父の霊を慰めようと、わざわざウェールズの田舎で行われる除幕式に東京から参加することを決め、英語の勉強を始めた。

 山本新太郎さんは中村さんの母方の祖父に当たる。その母は平野丸の惨事からわずか6日後の10月10日、山本さんと同じ誕生日に生まれ、父親(山本さん)のことを知らずに育った。

 難しいのは平和

 10月4日。アングルのセントメリー教会の墓地で行われた慰霊碑の除幕式。エリザベス女王のいとこに当たるグロスター公リチャード王子が、花崗岩でできた高さ約1メートルの慰霊碑を除幕、ロンドン駐在の日本郵船関係者、日本大使館幹部、地元自治体幹部らが花輪を捧げ、黙祷を捧げた。

4日、英西部ウェールズのアングルで「平野丸」の慰霊碑に花束を手向ける中村良子さん(中央)ら(共同)

 ジェームズさんは除幕式がようやく実現したことについて「とても満足している」と感慨深げ。中村さんが駆け付けてくれたことに「感激している」と話した。「戦争をするのは簡単なこと。難しいのは平和を実現し、それを続けること」

 次女の雑誌編集者、都築沙耶さん(32)に付き添われて、慰霊碑に手を合わせた中村さんは「祖父も草葉の陰で喜んでいるはず」と感無量の様子だった。自身はクリスチャンとういう中村さんは式典が終わった後、練習を重ねてきた賛美歌アベ・マリアを都築さんと歌い、亡き祖父に捧げた。

 教会に残る埋葬記録を目にした中村さんは「身元不明、男性、40歳前後」との記載があることに目を奪われた。祖父山本さんは当時40歳だった。「さまざまなご縁、偶然が続いて、ここまで来ることができた。ここにきっと祖父が眠っているに違いない」。中村さんは堅く信じているようだった。

 式典の帰り、中村さん、ジェームズさんらは100年前に遺体が流れ着いたという海岸を訪れた。曇天に強い風が吹きすさぶ中、中村さんは広い海の彼方を見つめていた。別れ際、万感の思いで頭を下げる中村さんの手をジェームズさんはがっちり握った。

中村良子さんと握手するデービッド・ジェームズさん(共同)

 新たに建てられた慰霊碑は日本語、英語、ウェールズ語が刻まれ、日本と英国、ウェールズを結ぶ絆を象徴するものになった。この碑を大切に守り、継続的な日英交流の機会にするため、現地在住の日本人が毎年集まり、慰霊碑の清掃作業をするアイデアも持ち上がっている。

 中村さんが英ウェールズまで祖父の慰霊の旅に出るきっかけをつくった記事の筆者である私に、今回中村さんはわざわざお土産を持参してくださった。包みを開けると、英国の古城が描かれた陶器の皿があった。山本新太郎さんが平野丸とは別に英国から故郷に送った土産の一つ、形見の品だった。(共同通信=島崎淳)

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