第四十二回「マーヴィン・ゲイとタミー・テレルのデュエットソングに引き戻される風景」

壁の向こう、隣の部屋、下の部屋、アパートの廊下、ホテルの廊下、路上を歩いているときに家の中から聞こえてくる音や声。自身のまわりに漏れてくる音や声を、これまでの人生で何度も聞いてきました。たぶん皆様もいろいろ聞いてきたことだと思います。喧嘩する男と女、子どもの泣き声、爺さんの咳、婆さんのオナラ、もちろんその中には、男と女が愛しあっている声なんかもあって、アパートの隣の部屋から、旅行中に泊まったホテルの隣の部屋からなどなど、驚いたのは、道を歩いていたら、建物全体から響いてくるような喘ぎ声でした。というかあまりにも凄まじかったので、殺人事件でも起きているのではないかと思い、心配していると、一緒にいた友達が、「ここは、いつもこんな感じで激しいんだ」と言ってたので、界隈でも有名な喘ぎ声アパートだったようです。

サンフランシスコでは、中庭のある安宿に泊まっていたとき、その中庭に、まるでポルノ映画のようなセリフと喘ぎ声が、じゃんじゃん響いていたことがありました。そしてわたしは、自身のイチモツを握り、ひとり相撲をいたしたことなんかもございます。またモロッコで泊まっていたホテルでも、隣の部屋から、とてもヤラシくセクシーな喘ぎ声が聞こえてきたので、そのときもイチモツを握り、壁に耳をつけながら、手を動かしたのでございます。

なんだか、喘ぎ声ばかりに集中してしまいましたが、以前住んでいた部屋の下に住んでいた女性は、歌手を目指していたのかなんなのかわかりませんが、いつも歌声が響いてきてました。それもけっこう上手だった。そして、よく唄っている歌があり、その歌の同じパートをいつも繰り返していたのです。「エイント〜、ノー、マウンテ〜ン……」、このパートばかり聞こえてくるので、いつの間にやら、わたしもその部分を覚えてしまいました。でも、なんの曲だかわからなかった。

そんなある日、どこかの喫茶店で、「エイント〜、ノー、マウンテ〜ン」が聞こえてきて、わたしは、自分の部屋にいるような錯覚に陥ったのですが、店主に訊いてみると、この歌が、マーヴィン・ゲイとタミー・テレルの「Ain't No Mountain High Enough」ということがわかりました。そして、この歌がデュエットソングなのだと知ったのですが。下の女性は、いつも一人で唄っていたので、もしかすると、見えない相手とか、失った誰かを想って、あのように毎日唄っていたのでしょうか? そう考えると、ちょっと怖くなる。ちなみにそこには、2年くらい住んでいたけれど、喘ぎ声は一度も聞こえてきませんでした。とにかく、これを聴くと、前に住んでいた部屋に一気に引き戻される気がするので、あまり聴きたくないのですが、とても、いい曲です。

戌井昭人(いぬいあきと)/1971年東京生まれ。作家。パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」で脚本担当。2008年『鮒のためいき』で小説家としてデビュー。2009年『まずいスープ』、2011年『ぴんぞろ』、2012年『ひっ』、2013年『すっぽん心中』、2014年『どろにやいと』が芥川賞候補になるがいずれも落選。『すっぽん心中』は川端康成賞になる。2016年には『のろい男 俳優・亀岡拓次』が第38回野間文芸新人賞を受賞。

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