『ある男』平野啓一郎著 自分という檻の中で

 『ある男』というタイトルと、表紙に使われているアントニー・ゴームリーの彫刻が、本書の主題を的確に表現している。ゴームリーの作品を見ていると、人間の本質とは何かを考えさせられるのだ。死ぬまで決して出ることができないこの体と、変えることができない「私」という存在について。本書を閉じたときにも、問いが深く胸に刻まれている。「私とは何者か」

 弁護士の城戸章良は、かつて離婚調停の代理人を務めたことのある里枝という女性から相談を受ける。里枝は離婚後、息子の悠人を連れて実家の宮崎県に戻り、谷口大祐という名の林業に従事する男と再婚した。娘も生まれて平穏に暮らしていたが、大祐が仕事中に自分で伐採した木の下敷きになって死んでしまう。一周忌が過ぎたころ、大祐の兄が訪ねて来て、里枝の亡夫が谷口大祐ではないことが判明する。

つまり何者かが谷口大祐になりすまして里枝と結婚生活を営み、子どもまでもうけていたのだ。谷口大祐は単なる偽名ではなく、戸籍上実在する人物で、大祐の兄によると、だいぶ前から行方が分からなくなっていた。

 里枝が結婚し、ともに暮らした男は誰なのか。本物の谷口大祐はどこへ行ったのか。里枝に依頼された城戸は男の素性を調べつつ、自らの過去やいま抱えている問題について考える。「ある男」の人生を推理し、追うことを通して、自分の人生に向き合うのだ。

 城戸は在日コリアンの3世で、日本に帰化してはいるが、昨今のヘイトスピーチを見るにつけ心穏やかではいられない。妻とうまくいかなくなっている背景には、思想の違いがある。東日本大震災後のボランティアをするかどうか、死刑制度をどう考えるか。もう夫婦関係は破綻しているのかもしれない。しかし息子はかわいい。自分はどうするべきなのか―。

 里枝が亡夫から聞かされていた過去は、実は赤の他人の「谷口大祐」のものだった。夫の過去に同情し、共感したことで愛が芽生えた経緯を考えると、この愛は本物ではなかったということになるのか。里枝は苦悩する。遺影の前に座っても、呼びかける名前さえないのだ。

亡夫との関係をはかりかねていたとき、前夫との間に生まれた中学生の息子、悠人が言う。「お母さん、もうお父さんのこと、忘れちゃったの?」「…さびしいね。お父さんに聞いてもらいたいことを、毎日たくさん抱えて家に帰ってくるのが」。悠人は血のつながりのない父親を、心から慕っていた。

 曲折を経て、城戸は真相にたどり着き、里枝に伝える。「ある男」の生い立ちと素顔が浮かび上がる。そして、他人になりすますことを決めた男の動機が胸にすとんと落ちる。

 どんな境遇にあろうと、人は幸福を追求し続けるものなのだ。真実を知った悠人が「お父さんが、どうして僕にあんなに優しかったのか、…わかった」と言う。死ぬ直前の数年間、男が家族を愛し、愛されていたことが分かる。この小説は、愛を巡る物語でもあるのだ。本当の自分とは何者かという問いと同時に、本当の愛とは何かという問いをも内包している。

 たとえ名前を変え、戸籍を偽っても、たとえ誰かの過去を自分のもののように語っても、人は他者を生きることはできない。自分という檻の中で、少しでも幸せになろうともがくのだ。

つまり誰もが、「ある男」なのである。

(文藝春秋 1600円+税)=田村文

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