『愛なき世界』三浦しをん著 ゴールのない旅をゆく

『舟を編む』で辞書づくりに携わる人たちの仕事のディテールと、それに懸ける思いを活写した作家の三浦しをんが、今度は植物学研究の世界に切り込んだ。『愛なき世界』は、植物の研究に没頭する本村紗英を主人公に、地味な研究を続ける愛すべき“変人”たちを描いた小説だ。

 本村は幼い頃から植物が好きだった。大学4年のとき、植物を通して生命について研究したいという気持ちが抑えがたくなった。キャンパス内のケヤキの木を見上げてこう思ったのだ。「どうしてケヤキはこういう形で枝をのばすの。どうして植物によって葉の形やつきかたがちがうの。知りたい、知りたい、知りたい。いったいどういう仕組みで、植物は、私たちは、自らの形を決定づけ、生命活動をしているの」

 心の底からの衝動だった。そして、結婚も就職も棚上げにして、生きものと向き合う道を選んだ。東京・本郷にあるT大学の大学院に進学し、松田研究室に所属。いまは博士課程の1年生だ。

 本村の周りには、変わり者が大勢いる。教授の松田賢三郎は研究者としては一流だが、いつも黒いスーツに白いシャツという姿で、死神か殺し屋をイメージさせる風貌だ。松田の同僚である老教授、諸岡悟平はイモに夢中だし、空気の読めない後輩男子の加藤はサボテンにのめり込んでいる。そして本村自身は、気孔がプリントされたTシャツを着ている。

 本村の研究対象はシロイヌナズナの葉。細心の注意を払いながら1200粒もの種を採り、播き、その株を育て、調べるという地味な研究を、最大限の集中力と根気で続けてゆく。気の遠くなるような過程を経なければ、新たな地平にはたどり着けない。本村は「狂おしいほどの情熱に取り憑かれて」、その研究に没頭している。

 そんな研究オタクの本村に恋をする男がいる。松田研究室の面々が頻繁に利用している洋食屋「円服亭」の見習い、藤丸陽太だ。藤丸は本村に告白するが「私は、植物を選びました。愛のない世界を生きる植物の研究に、すべてを捧げると決めています」と言われ、あえなく失恋。それでも藤丸は、本村が植物を研究する姿を見守り続ける。

 藤丸という「外部の目」を通して、読者は植物研究者たちの生態を知る。そしてその藤丸もまた、料理という道を選んだ“求道者”の一人なのだ。

 途中、本村が実験の基本的な部分でミスをしてしまったことに気付く場面がある。振り出しに戻って研究をやり直すか、それともミスを受け入れてこのまま研究を続けるか。

「予定どおりに実験を進めて、予想どおりの結果を得る。そんなことをして、なにがおもしろいんですか?」

 そんな松田教授の言葉に表れた柔軟性は、どの分野の研究にも必要なものだろう。面白がれない人の目に発見はない。失敗の先に、思いがけない結果が待っていることもある。

 それにしても、なんて奥が深いのだろう。目の前に広がる謎、そして闇。それが分かることが何の役に立つのか。しかも何も見つからないかもしれないのだ。それでも、どうしてもやってみたい―。そんな思いで、目の前の仕事や研究に取り組み、格闘している人たちがいる。

 表題は『愛なき世界』だが、愛にあふれる。ゴールのない旅をゆく者たちの愛と夢が詰まっている。

(中央公論新社 1600円+税)=田村文

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