松永天馬×春ねむり - この世で一番美しいディストピア

「キモチワルイもの」とされる『おじさん』を文化に

——お二人は初対面なんですよね。実は春ねむりさんに出演オファーした時、共演したい相手として即答されたのが松永天馬さんでした。

春:プロモーションで行ったタワーレコードでかかっていた曲がとても良くて、店員さんに、「これ誰の何ていうアルバムですか?」って聞いたら、『松永天馬さんの【松永天馬】というアルバムです』って(笑)。

——そのアルバムからのソロツアー、タイトルが『ナルシスト』でしたね。

松永:ナルシストになりたいんです。どこか自分は離人感があるというか…あまり自分について語って来ず、バンドでは『誰か』に仮託している音楽ばかり歌ってきたので、もっと自分について歌っていきたいと思ったんです。『30代半ばのリアルな男性』の気持ちを、肉体を、想いを歌った曲はあるんだろうか? と。この国では消費されるのは女の子だったり、若者だったり…。『おじさん』というものは非消費物なのではないかと! バンドを長く続けてきた反動かもしれないですが、「カワイイもの」が特権階級とされるこの国で、「キモチワルイもの」とされる『おじさん』を文化にまで高めたい。それが『自分自身』を突き詰めていくこととほぼ同義なのではないか? と思ってソロ活動をはじめました。おじさんというのは、なかなか『鏡を見ない』んですね。自分と向き合わない。何かの脇役になってしまっているところがある。

春:私のLIVEでもおじさんに「鑑賞」されていると感じて曲を止めちゃうことがあります。いろんな楽しみ方があっていいとは思うんですけど、私が命を燃やしているのを、ただ見にくる場所じゃねぇから! って。それがあんまり伝わってないなって…。

松永:自分が当事者だって思ってないんですよね。春さんが命について歌っているのに、それを自分のことに当てはめて考えていない。

春:私は"正論でぶん殴る"ような曲が多いので、真剣に聞いていたら自分と向き合わざるを得ないはずなんです。傷つけたくはないんだけど、それでも傷つくまで言わないと通じないとも思っていて。私自身、自我がない子供だったので、考えるって、感じるってこういうことなんだというのを、音楽に傷つけられることで学んできたんです。

松永:言葉っていうのは、使い方によっては人を殺せるものですから。みんなそれを持っている。でも、危険なものだと認識した上で使うんであれば、時に身を守るものにも、人を救うものにも、癒すものにもなる。

春:自分を新しい価値観にアップデートするには、どうしても一回、精神的に死ななきゃいけないですよね。その過程で『死ぬ』『殺す』『殺される』というのも芸術の役割のひとつじゃないかなって。

松永:音楽が代理的な死を描くことで、聞いた人が生きていけるということもあると思っています。例えば、アーバンギャルドの曲に出てくる女の子が傷つくことによって、それを聞いている人が傷つかずにすむ瞬間もあるかもしれない。歌が、身代わりになればいい。僕らの役割は、新しい科学技術や便利な道具を生み出すことはできないけど、誰かの心の中にあるものに名前をつけたり、言葉にして言い当てることで発見させるってことですよね。

春:名前がないと見つからないものっていっぱいありますよね。

松永:自分は曲を作る時に、まず曲名を付けます。それが決まると、もうスラスラかけるし、そこに明確な名前がないと、もやーっとしたままになってしまう。

春:私は曲名は最後に付けます。歌詞から持ってくることが多いですが、その言葉が出てからはスラーっと書けた、みたいな、一番大事なフレーズが多いです。

松永:引っかかりになるようなフレーズっていうものは、自分の奥深くまで潜っていって探し出さなければならないんですよね。認めたくない自分の気持ちや、傷つきたくないけど、自分から傷つきに行かなければならないような心の過程を経て、はじめて曲を生み出せる。

歌詞、役割

春:言葉を噛み締められるような、朗読に耐えうる歌詞が好きなんです。いい曲だと思っても歌詞を読むと全然可愛くないなってこともあります。もっとみんなが歌詞を読んでくれるようになったら素敵だなって。

松永:それは我々が、もっと読みたくなるような美しい歌詞を作って行かなければならないということですね。業界全体で…ちょっと前の話なんですが震災の時に、どういう言葉が自分で発せるかな、と考えました。言葉を失ってしまう状況。あの津波の映像には、言葉は失われてしまう。そこで僕らが何か名付けができれば良かったのかもしれない。ライブも中止になってしまったのでTwitter上で架空のライブをやったんですよ。「開演します」と書いて、youtubeのURLを貼って、上がっていないものは曲名だけ書いて。僕なりにこの状況での言葉の伝え方を考えてやってみたことでした。

春:私は震災の時に、好きだったバンドが何も言ってくれなかったことに凄くショックを受けました。音楽はそういう時にこそ何かを与えてくれるものだと思っていたから…。

松永:何を言っても角が立つからって何も言えなかったり、あるいはただただ優しい言葉しか言えなかったりね。僕が震災後に出した『ガイガーカウンターカルチャー』というアルバムのモチベーションは「怒り」でした。あの震災で露呈した、まやかし、嘘、表面上の取り繕いに対する怒りをぶつけました。震災で失われた「自分が生きていく上での基準値」を決めろと。「絆」なんていらないんですよ! 「絆」っていう言葉で誰かを縛っているんじゃないかと思うんです。

春:そうなんですよ! なんで関係性は永遠だっていう前提なんだろう? この瞬間しか認識できないのに。「絆」が強調される卒業式とか、運動会とか、本当に嫌いでした。

松永:「絆」って、語源は馬とかをつなぎとめておく馬具なんですよね。我々は、お互いの心を縛り付けているだけなんです。僕らにできることは、既にある言葉の既定路線の意味に別の光をあてることかもしれないですね。今はポジティブな言葉とネガティブな言葉にはっきり分かれすぎている。本当はどちらにも取れることでも。

春:その最たるものは「孤独」ですね。生命の前提なのに、そう思ってない人が多い。みんなが孤独を当たり前に思えるようになったら、縛られないで生きていけるんじゃないかな? 誰かと一緒にいるからって自分が何者かになるわけじゃないし。今はSNSだったりTwitterだったり、自分の輪郭をあいまいにしていくものが多すぎるので、その中で自分が自分になるという意志が必要だと思います。

詩人対決

——当日はどういうライブになりそうですか?

松永:春ねむりさんはフィメールラッパーと紹介されることが多いようですが、僕は春さんにラッパーという印象は全くないです。「詩人」だと。言葉を直情的に伝えるという手段が彼女のジャンルレスな音楽に落ち着いたんだと思っています。自分も詩からこの世界に入ったので、当日は詩人対決になるんじゃないでしょうか。

春:私は、心の中にある男性的な部分、女の子のバンドに憧れて、「自分だけのものになってほしい!」と願うような…気持ち悪い部分を、松永天馬さんに誘導されて出してみたいと思ってます(笑)。

松永:春さんの中にある「松永天馬的な部分」をですね! 松永天馬の人生に登場する人は、誰しも松永天馬的な側面を持っているんです。同時に、春ねむりさんの人生に登場する松永天馬は、春ねむりさん的な側面を持っているんです。お互いの中に、お互いを見いだせるかどうか。お客さんもそれぞれ春ねむり、松永天馬の中に自分を見いだせるかどうかですね。そこには自分を奥深く探求できるかどうかが関係してくるんじゃないですかね。

春:じゃあ当日は、会場がこの世で一番美しいディストピアになりますね。楽しみだなぁ。

(Rooftop2018年11月号)

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