第19回「『懐かしい』という感情はもう少し手加減してくれないと困る」

センチメンタル、過剰していますか? こんにちは、朗読詩人の成宮アイコです。

先日、地元新潟でのイベントのため、数日間の帰郷をしました。東京で一緒に活動をしている友人も同行していたので、せっかくだからと新潟市内を案内してきました。

地元というのはいちいち思い入れがあるもので、なにかにつけて当時その風景にいた自分のことを思い出します。不思議なことに、その土地に縁もゆかりもない人と一緒にいるときのほうが、思い出が強く蘇るようです。

日本海に行けば、学校に行かなかったときに自転車で通ったことを(逃げたくて苦しかったなぁ)。B級グルメを食べに行けば、このスーパーのトイレの前のベンチでひとりで卒業証書を広げたことを(さみしかったけどほっとしたなぁ)。信濃川の夜景を見おろせるビルに登れば、休職中は信濃川にかかる橋を歩いて何度もハロワに通ったことを(人生まっくらで不安だったなぁ)。

記憶がぐるぐるとまわります。

小学校のころにゲームを見に行っていたデパート、中学校のころに旅行カバンを買ってもらったお店、早上がりの日のおなかがすいた帰り道、よく行った海鮮丼屋さん、真冬のバス待ちが寒くて立ち読みをしていたコンビニ。思い出の切なさに頭がおかしくなりそうでした。

そこでふと思ったのです。

「懐かしい」という感情は、単体で感じることができるのだろうか。なんだかいつも、「さみしい」とか「悲しい」とか「切ない」とか、胸がギュっとなるような感情がセットになってしまいます。「さみしい」「悲しい」「切ない」という感情は単体でも感じられるのに、懐かしさを感じると、「懐かしい」という言葉を借りて別の感情に誘導されてしまいます。

なぜこんなに懐かしさに執着してるかと言うと、「懐かしい」って超強くないですか? 全然好きではないものでも、懐かしさがあるとそこに引っ張られそうになるのです。

駅前のバスロータリーだとか、信濃川に映った夜景だとか、何度も歩いた路地裏だとか、働いたことのあるビルだとか、そんなものは全部、早くここから出て行きたい気持ちしかなかった場所のはずです。いい思い出がひとつもない、帰ってきたくもない場所のはずです。それなのに、嫌いという自分の感情を「懐かしさ」が追い越すことが多々あって、つい、「このままここにとどまりたい」とさえ思わせるのです、こわい。

もしかして、「懐かしい」というのは感情ではなくて現象なのでしょうか。もしくは、今現在のことを改めて大切にするための「おまじない」でもあるかもしれません。

実家の部屋を整理していたら、むかし書いていた手帳が出てきました。6つのリングで閉じられた、ビニール製の表紙の手帳です。

「現実の力がすごいから言葉なんてまったく張り合える気がしないよ」

これが、思い出と呼べる出来事がほぼない高校生のころのわたしが、3年間書き続けたメモ日記の最後のページに書いていた言葉です。懐かしさでその場から逃げたくなりました。同時に、ずっとここで暮らしていたい気持ちにもなり、しばらく立ち上がれませんでした。そして、思います。

現実の力がすごいから、だから忘れないように、こうして言葉にして残したいんだよね。

Aico Narumiya Profile
赤い紙に書いた生きづらさと人間賛歌をテーマにした詩や短歌を読み捨てていく朗読詩人。こわれ者の祭典・カウンター達の朗読会メンバー。朗読ライブが『スーパーニュース』や『朝日新聞』に取り上げられ、新潟・東京・大阪を中心に全国で興行。赤裸々な言動により、たびたびネット上のコンテンツを削除されるが絶対に黙らないでいようと心に決めている。

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