第七回「日本海軍の艦隊戦力が事実上壊滅したレイテ沖海戦」

ちはっす! 7回目。秋も深まってきましたねぇ。今回は太平洋戦争中の船の話。

四方を海に囲まれた海洋国家、日本。太平洋戦争でも海で多数の方が亡くなっています。海軍だけでも46万人(陸軍も輸送船ごと沈められて戦死も多数)、民間の徴用された方も6万人、ほとんど海の上で亡くなっています。

そもそも広い海の上、船が沈むと乗員は逃げ場がないですよね。そのため艦の規模により、戦艦や空母では一隻沈むだけで1,000人を超える死者を出すこともあります。今の時代の価値観で1,000人超えの死者が出たら大惨事もいいところですが、太平洋戦争中はバシバシあります。

1942年6月のミッドウェー海戦では日本の空母4隻が全滅、わずか数時間で3,000人以上戦死していますし、1944年のレイテ沖海戦では7,500名以上が3日間の戦いで海で戦死しています。

ほんで今回は、そのレイテ沖海戦から壮絶な戦いをした艦隊の話を。

レイテ沖海戦とは。1944年10月、アメリカ軍の物量に圧倒されてジリ貧になった日本海軍が起死回生を狙って決行した最後の切り札のような作戦す。フィリピンのレイテ島に上陸しだしたアメリカの大船団を戦艦部隊の艦砲射撃で殲滅する作戦で、主力の艦隊は栗田中将率いる戦艦大和、武蔵などの戦艦部隊。栗田艦隊は中央突破でアメリカの上陸大船団と上陸部隊を攻撃するのが主目的。

とはいえ、制空権をアメリカにとられている状況で戦艦部隊がレイテ湾に辿り着くことは不可能です。そこで、アメリカの空母部隊を北におびき寄せて栗田艦隊を突入しやすくするための囮となったのが小沢機動艦隊。この艦隊はもはや残り少ない空母と艦載機で派手に動き回って北に北にとアメリカ機動艦隊を引きつけて栗田艦隊への攻撃の目を逸らすのが目的です。当然、全滅するのは確実の部隊です。

そして南のほうからスリガオ海峡を抜けてレイテ湾で栗田艦隊とアメリカの大船団を挟み討ちにしようという計画の、旧型の戦艦を主力とする西村、志摩艦隊。この西村艦隊の旧型戦艦が「山城」と「扶桑」の2艦で、大正時代に造られた同型の戦艦です。当時、最強の戦艦を国産で造るぜ! と頑張ったんですが、主砲の配置ミスや速力が遅いなど、正直設計的にイマイチなところが多く、実戦にも投入されてませんでした。

しかし、もはやそんなことも言っていられないような戦況、起死回生のこの作戦で出撃の機会を得ます。3つの艦隊が各々の目的を持ってフィリピン、レイテ島を目指します。栗田艦隊は途中、アメリカ軍の猛攻撃で戦艦武蔵(被害担当艦として目立つようになっていた)等数隻を失いながらもレイテに向かい、小沢艦隊も北に北にとアメリカ機動部隊を引きつけて作戦はうまくいっているようにも見えます。

が、当時、現場は無線のやりとりがうまくいっておらず、戦況が各々の艦隊で連携できてません。さらに日本本土の連合艦隊司令部との無線も錯綜、栗田艦隊には小沢艦隊の囮作戦うまくいってるよ! の連絡もいかず、栗田艦隊はこのまま闇雲にレイテ湾突入できるのか? と混乱。前日の海戦の影響で突入開始の時間にも遅れが出ています。

南から攻め上がる予定の旧式戦艦部隊の西村艦隊。こちらもよく連絡ついてません。一応、突入予定の時間に間に合いそうだし、前日に軽く空襲を受けているので、夜が明けるとより厳しい空襲があるのでは。と、夜のうちにスリガオ海峡を抜けてレイテ湾に突入だ! と決断します。

暗闇のなか突撃する西村艦隊。そこに待ち受けていたのはアメリカの戦艦部隊と魚雷艇部隊。激しい戦艦同士の撃ち合いになります。しかしアメリカ軍には優秀なレーダーが装備されてますが、旧式西村艦隊は探照灯で直接照らして攻撃。勝負になりません。メタクソに撃ち込まれ、魚雷艇の魚雷にも避雷。

まず扶桑が轟沈。激しい砲撃戦の最中だったので総員退艦(船から逃げろ的な)命令が出る前の沈没のため戦死1,400名以上、生存者数名の状況。

続いて山城。最後まで一番主砲塔は射撃を続けますが轟沈。戦死1,500名以上、生存者数名。生存率が1パーセントを切る壮絶な最期です。ホント、船と乗員は一心同体と言いますが、この状況は悲惨すぎます。

結果、西村艦隊は壊滅、小沢艦隊も囮に成功するも壊滅。

残った栗田艦隊。戦艦部隊が南の西村艦隊に向かい、機動部隊が小沢艦隊に引きつけられて北にいる状況。突入すれば丸裸のアメリカ大船団がいるので大戦果か!!

と思われますが、無線のやりとりもできず疑心暗鬼の栗田中将。レイテ湾突入目前で反転、撤退してしまいます。戦史史上に残る「栗田艦隊、謎の反転」です。戦後も栗田司令官は口を閉ざしたまま亡くなり、永久的に真相は闇の中ですが、すべてが噛み合ってなかった、指示系統の混乱がこの日本海軍最後の組織的海戦だったのです。

ちなみにこの海戦から神風特攻隊の攻撃が始まり、終戦までに飛行機による特攻だけで5,000名の若者が命を落としています。

(挿絵:西 のぼる 協力:新潮社)

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