第244回「かけがえのない自らの道」

思い出の中に毎日がある、自分に見切りをつけてはいけない

活字にこだわる『Rooftop』

なんだかんだ私がこのコラムを続けて20年以上になるのを、今更ながらに驚いている。私が千歳烏山にジャズスナックをはじめた1971年から、スケジュールを中心にしたこの小冊子は47年間も続いていることになる。こりゃ~、奇跡に近い。

最近の本誌のコラムは読むとこ多しでとても充実していて、連載の数々も面白い。私が長いこと連載を続けることの意味は、やはり、「本気で生きている人たちと接点を持っていたい」「本気で面白いことに出会いたい」という願望があるからだ。だが、反響はほとんど皆無だ。しかし、『Rooftop』は、未だ活字にこだわり、大きな赤字(これは宣伝費と捉えている)を抱えても、ネットだけに移行するのを拒否し、毎月ただひたすら地道に印刷機を回して発行している。こんなところにロフトという会社の気骨を感じている。

ケイトウの豪快さにびっくり

先月号のおじさんの眼の反響

さて、今号は何を書こうかと悩んでいる。先月号の「秋は恋の季節か」というコラムがそれなりに評判で、続きを読みたいという意見が来ている。これは珍しい。70歳になっても本格的な恋ができるんだよという私の体験からの「主題」は、同年代の老人や若い連中の間で、それなりに話題になっているようだ。私にとっても、このような記事を書くのはとても恥ずかしい限りだと思いつつ、みんな、「そんなことはない。70歳の恋は自分たち若いものには励みになる。ぜひ書いてください」と言ってくれた。特に、その恋がもうすでに終わってしまった今、私は果てしなく思い出の中に毎日がある。多分、私にとって最後の恋だったと思うからなのだろう。

森林公園は花ざかり、疲れが飛んだ

老い先短い70歳のセックスは可能か

「70歳になっても勃つんですか?」と若い連中に聞かれるが、「そういう問題ではないんだよ」と答えるしかない。だいたい冗談であろうが、「理想の死に方は腹上死」と語る高齢男性は驚くほど多いらしい。高齢者の8割は、「セックスがしたい」という。高齢者の性は、単純に「性欲」だけではない。年を重ねるほど難しく少なくなる人間関係、孤立、将来の生活の不安を持ち続けている。もう現役でないのだという喪失感が存在する。確かに今、お金を積めさえすれば営業の女性はたくさん存在しているが(援助交際、ソープでもデリヘルでも)、そこには基本、恋は生まれない。「人は老いたら枯れる」というのはあくまで一面的な見方であり、男性の約8割、女性の約3割は、70代になってもセックスへの関心や願望を多かれ少なかれ持っているという。

かけがえのない個人の人生

「1年に一回、いや10年に一回ぐらい、無茶をやってもいいじゃないか?」と私は囁き続ける。

まず、家庭を忘れること、主婦であることを忘れること、子供も、食事も、洗濯も忘れる。そして耳をすます、自分が今何をしたいのか。若かった頃に戻る。ひとりになる、恋か、外国旅行か、自分に見切りをつけてはいけない。

公園で一人プラモ作りに熱中

深く人を好きになる

肝心なことは夢中になってゆくことで、それはほっといてできることじゃない。夢中になると、今度は細かな魅力が欲しくなる

この10年ほど、私は同世代の死をますます意識するようになった。我が世代は風前のともしびであり、その一つ一つの死に自分の身が一部引き裂かれたような思いを描くのだ。

私たち老人がいなくなれば私たちのような人はいなくなるが、人は死ぬ時、その代わりになれる人は一人もいない。なぜなら、人はかけがえのない個人であり、自らの道を見つけ、自らの人生を生き、自らの最期を告げる定めにあるのだから。

恋を恐れていないふりなど私には出来ない。私はいつだって積極的に愛し愛されて来た。多くを与えられ、お返しになにかしら与えて来た。映画や芝居、本を読み、世界を旅し、考え、消費して来た。

「何よりも私は、この地球という惑星で感覚を持つ存在であり、考える動物であった」(オリバーサックス)

これも老いの感傷なのか。せいぜい、良い生き方をするしかない。

風で山がなり、雲が飛び、飛ぶ雲の向こうに青空が見える。

この緩やかな秋の透明な色彩にひれ伏しそうだ。

あと、何回これを観れるのか。

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