◎今月の視点 名スポークスマンWin Tin氏が存命だったならば、、、 ちょうど4年前の2014年4月21日に、ヤンゴン総合病院で病死したU Win Tin氏を思い起こさずにはいられない。享年85歳だったが、彼はそれまでNLDの有能なスポークスマンとして党とスーチーさんを支えてきた。

ちょうど4年前の2014年4月21日に、ヤンゴン総合病院で病死したU Win Tin氏を思い起こさずにはいられない。享年85歳だったが、彼はそれまでNLDの有能なスポークスマンとして党とスーチーさんを支えてきた。

◎今月の視点 名スポークスマンWin Tin氏が存命だったならば、、、

いよいよミャンマーの正月が始まる 1年の前半は正月づくしで休日多し

3月の声を聞いたら、やはり少々エアコンが恋しくなる日々が増した。日中の寒暖計を見ると35度前後になっていたが、それでもまだ湿度は低めで、木陰に入れば実にしのぎやすかった。
今月はミャンマーのお正月になる「ティンジャン祭」というこの国最大のイベントが中旬から始まる。暑さは増し、まさに酷暑となる季節の到来だ。
この祭りのメインイベントは、すでにご存じのように1年の俗世の垢を洗い流すといわれる「水かけ祭り」だが、年々スケールが縮小されているのはやや寂しい。それでもミャンマーの方々は、3月の後半になると、この祭りの時期に咲いてすぐ散るという一夜花の黄色い「バダウ」の造花を飾り付けたりして、妙に落ち着かなくなる。
しかしよく考えてみれば1月は日本の正月、2月が中国やカレン族、そして4月がミャンマーだから、この国にいる我々邦人は、年の前半は年中様々なお正月のおすそ分けにあずかれることになる。休祭日も多くなり、水かけ祭りの後に日本はゴールデンウィークが控えているので、邦人の方々にとっては、4月はほとんど仕事にならないかもしれぬ。

国のトップに健康不安説が広がる スーチー氏に取り次いでくれた男

話は変わるが、先月21日、ミャンマーのティン・チョウ大統領が辞任した。健康不安が理由だそうだが、最近はスーチーさんも健康状態がよくないらしいと聞く。
国のトップの健康不安はいささか心配にはなるが、果たしてそんな単純な理由だけでトップが辞任するのなのだろうか、という疑念も一方では湧いた。
政府からの詳細な説明や発表がなく、ニュースだけが先走りしてしまうから、政権内部で何か問題が起きているのではないか、という余計な詮索までしてしまう。
こうした政府声明という点に関して言えば、ちょうど4年前の2014年4月21日に、ヤンゴン総合病院で病死したU Win Tin氏を思い起こさずにはいられない。享年85歳だったが、彼はそれまでNLDの有能なスポークスマンとして党とスーチーさんを支えてきた。
氏はミャンマー(当時ビルマ)が英国の植民地支配から完全独立を果たした直後の1950年代初頭から、フランスの通信社AFPラングーン支局に勤務、ジャーナリストとして活動を開始するが、その約10年後に当時のネ・ウイン政権は言論封じのために新聞社や出版社を撤収し、氏は職を失う破目になる。これが遺恨の始まりだったかもしれない。
それからこの国では1988年に学生を中心とした歴史に残る大規模な民主化運動が起こり、氏はスーチー氏やU Tin Oo(現NLD中央委員会最高顧問)氏らとともにNLDの創設に尽力を注ぐ。しかし翌年、反政府運動を主導した罪状で投獄。以後約20年にも及ぶ過酷な囚人生活を余儀なくされるが、2008年に恩赦で解放された。
恩赦当日、氏は自身の解放が信じられず、青い囚人服を着用したまま塀の外に出てきたという。そして以後も抗議の意味を込めて、氏はしばらく日常でもその青い囚人服を着用し続けたというエピソードが残されている。反骨の気概溢れる政治家で、ジャーナリストでもあった。
今だから明かすが、当方は2011年6月19日のスーチー氏の66歳の誕生日に、日本のある出版社の要請を受けて、スーチーさんを表敬訪問したことがある。彼女が自宅軟禁から解かれてわずか8か月後のことで、この時は世界のメディアが集結して凄まじい報道合戦になった。
そのため、まともに行ったら面会など到底無理と判断し、ある筋を通じてNLDの有力幹部に接蝕することができた。そこでその方に、3か月前に日本で起きた「東日本大震災」で被災された方、打ちししがれている方にスーチーさんから激励のメツセージを頂き、勇気づけていたいただきたい、それが面会希望の趣旨という、ただ1点の要請理由を告げた。
結果的にこれが功を奏した。スーチーさんは快諾してくれたという。この時に有力者が話を通したのが、スーチー氏の絶大な信頼を得ていたスポークスマンのWinTin氏だった。

「東日本大震災」被害者の激励を頂く 老獪で知略に長けたスポークスマン

彼女の誕生日に当時ユザナホテル近くにあった旧NLD事務所に出向くと、案の定道路の両サイドは熱狂的な支持者たちで埋め尽くされていた。その群衆をかき分け、受付けで要件を告げると、党の幹部の方が、スーチ-さんの執務室のある2階へ誘導してくれた。
WinTin氏とはそこで初めてお目にかかった。黒縁の眼鏡をかけたもの静かな方だったが、目が据わっていた。何事にも動じることのないという眼力の強い視線が眼鏡の奥から覗いていた。
彼は「しばらく待つようになるがいいか」と断りを入れてきた。その合い間にも彼女のインタビューを終えたCNNや BBCなどの取材を頻繁に受け、コメントを求められていた。今後のNLDの方針とか政策について聞かれていたようだったが、彼は世界のメディアにも臆することなく、堂々と渡り合っていた姿が印象的だった。
スーチーさんの執務室に招き入れられたのは午後4時近くだった。気が付けば当方が最後のようだった。多くのメデイアからさんざん同じことを聞かれたようで、さすがにお疲れのご様子で、目は少々くぼみ、頬も幾分こけているように見えた。それでも当方が誕生日のプレゼントを差し上げ、面会理由の詳細をを告げると、やっかいな政治的な難題への質疑応答から解放された安堵感のためか、彼女は幾分ホッとしたような表情を見せた。そしてきちんとした被災者へのメーセージを頂いた。
むろん彼女は災害状況をよくご存知だった。2007年のサイクロン災害でミャンマーに甚大な被害が出たときに、日本がいち早く支援の手を差し伸べてくれたことにも謝意を述べられた。面会時間が5分くらいかと思っていた当方は、30分近くも話ができて光栄だったが、最後に当方がその数年前にダライラマ14世法王猊下にお会いした時、法王がたいそうスーチーさんのことを危惧していたとお伝えすると、彼女の表情がさらに柔和になり、無言でうなずいた。
汗を拭きながら執務室をを出ると、当方はWin Tin氏に丁重に感謝の意を告げた。氏は無表情にうなずいただけだったが、それから何かイベントがあるたびにNLDに出向き、彼と少しずつ会話をするようになった。公式の場ではなかったので重要な話は避けたが、失礼ながら普段は意外に気さくなおっさんという感じだった。
ある時彼がクロサワの映画が観たいと何気なく漏らしたので、その次の訪問時に「7人の侍」などのDVDを持参したら、初めて相好を崩し、えらく喜んでいただいた。
Win Tin氏は亡くなる数週間前から持病が悪化し、苦しんでいたという。長い間秘書役を務めていたザー氏によると、亡くなる前日に、彼はスーチー氏への支持を改めて表明したという。急報を受けてスーチー氏は病院に駆け付けたが、最期をみとることはできなかったという。
彼が亡くなってちょうど2年後に、NLDはついに念願の政権の座に就いた。苦難に満ちたNLD政党とスーチー氏の晴れ姿を、ついに見ることはかなわなかった。30数年にも及ぶ民主化への戦いの終盤に来て散った氏の無念さは、いかばかりだっただろうか。彼はスポ-クスマンというより、スーチー氏の右腕であった。同志でもあった。
タラレバの話はしたくはないが、彼がもしまだ存命だったら、そして彼のしたたかなで老獪な知略をもって対外的な声明や戦略を練っていたとしたら、今ほど国際社会やメディアから一方的に糾弾され続けることはなかったのではなかろうかと、今振り返ってしみじみ思う。

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