『QQQ』和合亮一著 埋められた言葉を掘り起こす

 福島市に住む詩人の和合亮一は、2011年の原発事故の直後からツイッターで発信し続けた『詩の礫』で広く知られる。新詩集『QQQ』は現代詩への原点回帰であり、新たな跳躍でもある。シュールレアリスムの難解さとユーモア、恐怖と混沌がひしめき合い、共存している。

 作品全体を覆うのは、生きることの不条理だ。原発事故後に拡散した放射性物質の存在が、意識から去ることがない福島での暮らし。その中で不条理が幾重にも重なり、居座っていることが分かる。

 タイトルの「QQQ」は、クエスチョンのQを三つ連ねた。表題詩は、全ての行の最後に「?」が付いている。高村光太郎の詩「牛」を下敷きに、被ばくした牛をモチーフに据えて書いた。

「やせた牛はのろのろ歩く?/やせた牛は土を踏みしめて歩く?/やせた牛は平凡な草のうえを歩く?/足を右から出してまた右から出してまた右から出す?/尋ねてみたいことがある?/草を食べるってどういうこと?」「わたしたちそのものがこの風景だ?/もはや疑問そのものが?/牛の姿をしている?」(「QQQ」)

 疑問形でしか語れない風景が、詩に刻まれている。

 私は今夏、久しぶりに福島を旅した。車で福島市を出発し、飯舘村、南相馬市、そして浪江町へ。除染廃棄物が入ったフレコンバッグの山を至る所で見る。帰還困難区域が広がる。被ばくした牛たちが静かに草を食む。

 だが和合は私のような旅人ではない。住人として、この風景と向き合わなければならない。その生活は、あまりにもシュールだ。

「町に戻ってきても 良いということになった/飲料のための水が 貯められている 山の上のダムの底に/震災直後からの放射性物質が 沈殿している/それは 水とは決して混ざり合わないので//安全です その説明が 繰り返しなされた/人々は 心配でたずねる いや/大規模な 除染の作業などをして/かき回したりしないほうが良いのである と 教えられる」(「十二本」)

 異常ともいえる日常への怒りがひたひた伝わってくる。なにしろ、家の庭には汚染土が埋まっているのだ。いったいこの状況をどう受け止めろというのか。

「わたしの家の庭には 今もまだ/土の中に土が埋められています/言葉の中に言葉が埋められています」(「風に鳴る」)

 人はどんな異常にも慣れる。慣れなければ、叫ぶしかないからだ。慣れて言葉を失い、やがて沈黙する。しかし詩人は、異常と日常の間で、叫びと沈黙の間で、不条理のただ中で、埋められた言葉を掘り起こす。分かりやすい言葉ではなくても。

「ところで黒板は宇宙の半分である/わたしたちは十万年の歴史に火を点けたばかり」(「自由登校」)

(思潮社 2400円+税)=田村文

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