子どもが欲しかった 旧優生保護法下で強制不妊手術 つわり後、説明ないまま麻酔 大村・聴覚障害の79歳女性

 旧優生保護法下(1948~96年)で不妊手術を強制されたとされる聴覚障害者で長崎県大村市在住の梶原恵美子さん(79)が21日、初めて取材に応じ、手術を受けた当時の体験を語った。親族に手術を強要され「逆らえなかった」と告白。「子どもが欲しかった」と今も続く苦悩を口にした。長崎県内で不妊手術の被害者が公に体験を語るのは初めて。
 全日本ろうあ連盟(東京)が聴覚障害者の被害実態を把握するため加盟団体を通じて全国調査を実施。県聴覚障害者情報センター(長崎市)の聞き取りで梶原さんの被害が判明し同連盟に報告した。梶原さんへの取材は、同センターの手話通訳者を介して行った。
 梶原さんは熊本県天草市出身。生まれつき聴覚障害がある。父は戦死。小学6年まで祖母と叔母の3人で暮らした。小学校卒業後、母が働きに出ていた長崎県に移住。大村市の県立ろう学校に進学し、寄宿舎生活を送った。
 31歳の時、2歳年上の難聴者の夫と結婚。ほどなくして梶原さんに「つわり」の症状が出始めた。それを知った夫の母親(故人)は、梶原さんを大村市内の産婦人科病院に連れて行った。家族にも医師にも何も説明されないまま、麻酔注射をされ、意識が戻った時にはベッドの上。下腹部の出血がしばらく続いた。
 あれは人工妊娠中絶手術だったのか、不妊手術だったのか。あるいはその両方だったのか-。その後の人生で誰かから正式に説明を受けたことはない。ただ、へその下に10センチ程度の手術痕が今も残り、手術後、妊娠の兆候が現れることはなかった。梶原さんは「(状況が)何も分からなかった。義母に『子どもはだめ』と言われた」と記憶をたどる。
 時々、夫と子どもが欲しかったと話すことがある。現在、夫は高齢者施設に入所。一人になってなおさら寂しさが募るという。梶原さんは「子どもがいたら、今ごろ孫もいるかもしれない。残念です。わがままを言ってつくらせてもらえればよかった。でも、義母には逆らえなかった。仕方なかった」と話す。
 旧法を巡る国の責任については「自分のこととつなげて考えられない。仕方ない。終わったこと」と言葉少なに語った。
 旧法下で手術を施された障害者らは約2万5千人。うち約1万6500人が強制とされる。県内では少なくとも51人の手術が確認されている。旧法を巡っては各地の被害者が国に損害賠償を求める訴訟を起こす一方、被害者へのおわびと謝罪に向け、超党派議員連盟による救済法案の作成が進められている。

◎旧優生保護法

 1948年施行。「不良な子孫の出生を防止する」との優生思想に基づき、知的障害や精神疾患、遺伝性とされた疾患などを理由に不妊手術や人工妊娠中絶を認めた。医師が必要と判断すれば本人の同意がなくても都道府県の「優生保護審査会」の決定で手術可能で、53年の国の通知は身体拘束や麻酔使用、だました上での手術も容認。96年、障害者差別や強制不妊手術に関する条文を削除し、母体保護法に改定された。

手術を受けた当時の体験を手話で語る梶原さん=長崎市橋口町、県聴覚障害者情報センター

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