『私以外みんな不潔』能町みね子著 大人のボキャブラリーで綴る5歳児の独白

 こう来たか!と唸らせる一冊である。綴られているのは、ある人物の独白である。どんな人かな、と読み手は想像する。そしてわりとすぐ、おかしいぞ、と気づく。「ですます調」と「である調」が入り乱れている。言っていることが突拍子もない。というか、実に視覚的である。駅の名前を、ひらがなで把握している。ひらがなの形に、好き嫌いがある。言葉を、色に結びつけて覚えている。やがて、父親と母親の描写が出てきて、札幌から東京の祖母の家に移り住んだらしいことがわかる。姉と弟と共に、とても奔放に西瓜をたいらげ、姉と二段ベッドで眠る。どうやらこの主人公は、5歳児であることがわかる。

 それにしても、観察眼とボキャブラリー豊かな5歳児である。普通の大人でも気づかないようなところにツッコミを入れる。やがて少年は絵を描き、物語を作る喜びを覚える。母が古紙を集めて作ってくれたメモ帳の、余白の多さに打ち震える。けれど幼稚園に通う段になると、とたんに心のシャッターを下ろす。先生にも、お友達にも、気を許すということをしない。

「私というのはだいたい人がさわってくるのだっていやなんです。覚えていない生まれたばかりのころならいざ知らず、最近は両親にだってベタベタさわられるのがいや。」

 なんて、なんて生きづらい少年時代だ。そして、その気持ちが、ちょっとわかってしまうことも否めない。人はいつから、どうして「順応する」ことをよしとして生きるんだろう。その疑問符を、まるで何もなかったかのように、どこかに押し込めながら、私たちは大人になった。

 慣れぬ幼稚園の、慣れぬトイレに行けずに、おもらしを連発してしまう主人公。それでもなお、あんな汚いトイレには行けない。級友は勝ち誇ったようにひやかしてくる。ふざけて身体ごとぶつかってくる彼らの仕打ちに、ただ、耐えるのみである。

 やがて彼は「居場所」を見つける。それはそれは物理的に。おゆうぎの部屋とか、物置の裏とか。ひとりの居場所を獲得することで、彼は彼を守るのだ。するとだんだん、級友たちのことが見えてくる。女の子たちがこぞって、彼の絵をほめてくれたりする。「どうしても合わない人たちに無理やり合わせる」のではなく、「自分の特技を喜んでくれる人に出会う」経験をする。

 そして、卒園式。彼は今まで想像さえしなかった、想定外の感情に襲われる。その感情の正体は、おそらく大人になっても説明がつかない。あの日の感情は、あの日のもの。人はそうやって、自分の過去を、受け流しながら生きているのだ。

(幻冬舎 1300円+税)=小川志津子

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