唐突な質問となるが、皆さんは、※内田(山崎)昂輔というプロサッカープレーヤーをご存じだろうか。
失礼を承知で断言するが、彼の名前を知っているサッカーファンはかなりの少数派と言えるだろう。
彼がJリーグに所属した期間はわずか2シーズンばかり。以降は、海外クラブを中心に転々と渡り歩いた、いわゆる『アウトサイダー組』であるからだ。
しかし、その歩んできた半生は、王道的なキャリアを積み重ねる選手たちとは明らかに一線を画したもので、それ故に人を引き込むだけの魅力が十二分に詰まっている。
「自分のキャリアなんて、決して自慢できるものではないですよ(笑)」
本人はこれまでの生き方を謙遜する。
しかし、多くのサッカーファン、そして、これからプロサッカー選手を目指す者たちにとって、そのストーリーの全てが感慨深いものになるだろうと、筆者は彼の話に耳を傾けながら感じた。
「変わった生き方をしているサッカー選手がいるんだなぁと思ってもらえるだけで嬉しいですね」
これまでの道のりは決して順風満帆なものではなかったかもしれないが、目標と真摯に向き合い、そして確実に歩を進める彼の生き様から何かを感じ取って頂けると幸いだ。
数時間に及んだロングインタビューの中から今回は第一回目として「サッカーを始めたきっかけ」と「日本代表FW岡崎慎司らと戦った高校時代」を振り返る。
聞き手:カレン
写真提供:内田昂輔
※現役中に登録姓名を内田から山崎に変更しているが、今回のインタビュー内では内田としている。
カレン:――では、よろしくお願いします。まずは定番ですが、ずばりサッカーを始めたきっかけを教えてください。
内田昂輔(以下省略):こういうインタビューは初めてのことなのでとても楽しみです(笑)。こちらこそ、よろしくお願いします!
サッカーに初めて触れたのは幼稚園でしたね。「周りがやっているからやってみようか」というパターンでした。
――となると、完全に『Jリーグブーム』の頃ですね。私もその時代を経験している人間ですが、子供たちが至るところでJリーグのマスコットが書かれた靴をこぞって履いていた頃が懐かしいです(笑)。
はい、まさにその時代です(笑)。ちなみに、自分はヴェルディ派だったかな(笑)。
ただ、本格的にサッカーをやり始めたとなると小学生からですね。
――「サッカー選手になりたい」という気持ちはいくつぐらいから芽生えましたか?
それは始めた時からありましたね。実はめちゃくちゃサンガファンだったんですよ。
まだJFLとかでやっていた頃から家族の影響で試合に見に行ったりもしていて…。
――『西京極(京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場)』をメインで使っていた頃よりも前のことですね。
そうです、そうです。
太陽が丘(京都府立山城総合運動公園)や宝ヶ池(京都市宝が池公園運動施設球技場)とかが多かった時代ですね(笑)。
――そこで「将来は自分もサンガに入りたい」と?
もちろん、強烈に!(笑)
ただ、当時の僕は下手くそなサッカー少年でしたから可能性はゼロでしたね(笑)。
小学校で入っていたチーム自体はかなり強いチームで、上手い子も多かったんですが、僕はそこにギリギリついていけるかのレベル。最後の大会も12番の背番号をもらって、「あ、終わった」と思いました(笑)。
――その気持ちはよくわかります(笑)。ジュニアって、公式戦までは背番号が入れ替わったりしますが、公式戦の『背番号渡し』で初めて自分の立ち位置が明確になりますもんね。
そうなんですよ。けっこう楽しみにしていたので、あの「終わった…」という感覚は今でも覚えています(笑)。ただ、それでも「サッカー選手になりたい」という気持ちは持ち続けていました。
で、それから中学生になり、京都市のクラブ選抜とかにも入るようになって、中二ぐらいで初めて地域のトレセンに入りました。
――中学生の時に大きな変化が起こったわけですが、自分の中でも「あ、何か変わったな」みたいな感覚はありましたか?
いや、どうなんでしょ。この流れも偶然が重なっただけかなと思っています(笑)。
それなりに大きな大会で何点もゴールできて、そのきっかけで選抜に選ばれたパターンですからね。
でも、それでも京都でトップレベルというわけではなく、選抜に参加しても「居心地悪いな…」という感じでした(笑)。
――でも、高校の進学先はあの名門『滝二』(滝川第二高等学校)ですね。
はい。まぁ、そんな程度のレベルの選手だったので、当然、サンガのユースにいけるわけがない。でも、「選手権には出たいな」という気持ちは昔から強かったんです…。
そして、「選手権に出るにはどうしたらいいか」と考えたんですが、京都は「どこが出るかわからへん」という地域だった(笑)。
「京都で一緒にやってきた選手たちも追い抜かさな」とも考えていたので、じゃあ、「これは県外に行くしかない!」と。
その後は県外の高校を色々と調べましたね。それこそ、当時、めちゃくちゃ強かった国見(長崎県立国見高等学校)とかも考えました。で、最終的には『滝二』に行きついた感じです。
――その頃は『岡崎兄弟』が活躍した一つ前の時代でしたよね?
そうです。卒業後にジェフに入団したハヤシタケ(林丈統)さんが活躍した時代ですね。
あの人がエースとして得点王を取り、チームは全国ベスト4まで行きました。その大会を見ていた僕も「あ、ここに入れば、選手権は出れるんちゃうかな?」と。
それでこれも運が良かったんですが、中学のチームのコーチがセレクションに連れていってくれて、ギリギリで合格できました。
――実際に入ってみてどうでした?
いやー、めちゃくちゃ上手い選手ばかりでした。
特に僕の一つ上がシンジ(岡崎慎司)さんたちの時代で、すごい選手が集まっていたんですよ。
ただ、そこを間近で見れるようなレベルにはまだ至らずで、入部してしばらくは「まずは自分たちの学年でちょっとずつ頑張っていこう」って感じでした。
基本的にA、Bチームと一年生チームは分かれていて、一年生チームからいきなり上にいけることは滅多にないですからね。
――AチームやBチームは遠い存在に感じていたんですね。
ただ、一年生の最後のほうにAチームに上げてもらえたんです。モリシ(森島康仁)と二人ぐらいだったかな。
初めてそこで二個上の人たちともサッカーができました。上級生は怖い怖い存在でしたが(笑)。
――岡崎慎司選手の当時の印象は?
単刀直入に言って、めちゃくちゃ凄い選手でしたよ。
シンジさんはプロ入り後も「上手くない」とか周りから言われていたようですが、僕らからしたら本当にスーパーな選手。一年生から選手権に出てゴールも決めてましたからね。
とにかく、あの人はめちゃくちゃ点を取るんですよ。どんな状況でも何故か点を取ってしまうというか。あの時から既にダイビングヘッドもありましたし。
「おれは疲れへん!」と言いつつ疲労骨折しちゃったりとか…常識の枠からはみ出ていた選手でした(笑)。
――それからの高校時代はどのように進んでいきました?
二年生に上がってからはちょこちょこ試合に出させてもらえるようになって、インターハイでスタメン。選手権はギリギリ出られるか出られないかってレベルでした。ちゃんと出られるようになったのは三年生になってからですね。
――そして、選手権やプリンスリーグでも結果を残しました。
選手権がベスト8、プリンスがベスト4だったかな。
――過去にも他の選手に同じ質問をしたことがありますが、やはり、Jクラブと戦うプリンスリーグは燃えましたか?
僕らのような雑草の集まりは特に燃えましたよ(笑)。
しかも、僕らの世代って、神戸とかでは「めちゃめちゃヘボい」とか言われていたりしたんですよ。「今年の滝二には勝てるやろ」みたいなことをしょっちゅう言われてました(笑)。
なので、ヴィッセル、サンガなどとの試合は燃えましたね。ヴェルディなど関東勢が相手でもそうでしたが。
――当時は今と比べて「ユースチームは技術的な面で目立っていた」とよく聞きます。
そうですね。本当にユースチームは上手い選手ばかりがいました。
なので、「気持ちだけは絶対に負けない」という感じでいつも戦ってました。
――それからのサッカーキャリアはどのように計画していったんでしょうか。
高校を卒業して大学に行って、プロになって、教員になろうと考えていました。
母子家庭で育ったこともあり、「仕事」そのものがあまりわかってなかったんですよね。
だから、「サッカーをやりながら将来的にはサッカーに携わるという仕事をやれたらな」と考えた時にも自分のアイデアでは教員ぐらいしかなくて(笑)。
でも、サッカーを本気でやっていくにつれて、「サッカーをやりたい、やり続けたい」という意欲が強くなっていったんです。
――では、大学進学も「教員になる」という計画があってのことだったんですね。
「教員免許は取らないといけない」というのがあったので。まぁ、高卒からプロにいけるレベルにはなかったとも言えますが…。結局、サッカー推薦で立命館大学に進みました。
でも、「サッカー選手になりたい」という気持ちは強かったので、在学中は一度も就活とかやりませんでしたね(笑)。
今振り返ると、経験としてやっておいたほうが良かったなぁとは思ってますが(笑)。
――となると、大学生活は「教員免許を取りつつサッカー選手への道を目指す」という毎日だったんですか?
いや、それが…。大学のサッカー部に入ったことでそのプランはまんまと崩れ去りました(笑)。
――え…どういうことでしょう??
実は…。
大学サッカーへの進学を検討中の方は特に必見。まさかの展開で教員免許を諦めた理由とは果たして…。
大分トリニータでキム・ボギョンらと共に戦った時代も振り返る、『Vol.2』も乞うご期待。