島民とボランティアの心つなぐ ~似島地域おこし協力隊 船谷さんの夏

普段は釣り客でにぎわう穏やかな島の様子は、西日本豪雨で一変した。島内のあちこちで土砂崩れが起き、全・半壊住宅が約30戸、床上・床下浸水した住宅が約100戸。降り続く雨に不安を抱えた住民は早々に避難し、死者は出なかった。水道や電気といったライフラインが寸断されなかったのも幸いだった。

7月7日の朝、島民は総出で復旧作業を開始した。

今年4月、似島に地域おこし協力隊として着任したばかりの船谷季弘さん。7月6日の夜は広島市内にいたが、翌朝すぐ似島に帰り、復旧作業にあたった。

懸命に汗を流す中で、地域住民の口から聞こえたのが「明日からどうすればいいのか…」という言葉だった。月曜になれば、島に残る人たちは高齢者ばかり。土砂が流れ込んだ家の周りは道が狭く、重機はおろか車も入らない。島民だけで復旧作業をするのは、3日間が限界だった。

(画像提供:似島公民館)

被災して4日目の7月10日、船谷さんは南区社会福祉協議会の協力を得て、災害ボランティアセンターを開設した。一番に考えたのは、住民感情。「大勢のボランティアがやってきたのに、何もせずに帰した」という過去のニュース等から、受け入れに不安を抱いている人や、「来てもらっても指導ができない」と言う人の話に耳を傾け、最初は定員を少人数の30人にした。

被災直後に災害ボランティア受付の拠点となった、地域おこし協力隊事務所(画像提供:似島公民館)

ボランティア受け入れから3・4日経った頃、船谷さんは住民の意識が変わってきたのに気付いた。「明日も来てくれるのか」という会話が交わされたり、「こんなことをお願いしたい」というニーズが上がってきたり。「ボランティアが30人じゃ少ないんじゃないか」という声が出て、すぐにボランティアの受け入れを100人体制に増員した。

(画像提供:似島公民館)

広島県内でもあちこちに被害が出たが、災害直後は道路が復旧していないところが多かった。そんな中、交通手段が海路の似島は、かえってボランティアが参加しやすかった。大切な移動手段である広島港―似島間のフェリーは、被災直後から運航会社の似島汽船がボランティアの運賃を無料にした。「船の運航がある以上復旧をお手伝いできないからと、ボランティアの運賃無料を申し出てくださり、大変ありがたかったです」と船谷さん。

多い日は1日367人のボランティアが参加(画像提供:似島公民館)

よいメンバーにも恵まれた。「礼儀正しく、いいボランティアさんばかり。その中でも、リーダーに適任の人を選んで現場の責任者になってもらいました。土日には300人を超すボランティアさんが島に来てくれましたが、うまく動かすことができました」

ボランティアには、個人宅の撮影禁止など、SNSの発信にも配慮してもらった。船谷さんの気遣いと采配が生き、島民が外部の人とコミュニケーションを取るようになり、島に活気が生まれた。

似島小学校児童から、ボランティアスタッフへ感謝のメッセージが送られた(画像提供:似島公民館)

海外からのボランティア参加もあった。日本在住のドイツ人約30人、東南アジアからマツダに出稼ぎに来ている人約30人、モンゴル人約20人など。千葉在住のムンフバト マンドールさんは、在日モンゴル人が作るボランティア団体やNPO法人のコミュニティーにボランティアを呼び掛けた。その話が横綱白鵬にも伝わり、広島へ行く際のバス手配や救援物資の提供などに協力してもらったという。

在京モンゴル人団体のボランティア活動を伝えるジャパンタイムズの記事

多くの人の助けを得て、似島災害ボランティアセンターは8月末で閉鎖した。

「良い仲間に恵まれ、いい経験をさせてもらいました」と振り返る船谷さん。地域住民と心を通わせ、ボランティアとの橋渡しをした経験は、改めて「人と接するのは楽しいと思わせてくれた」とほほ笑む。4月に着任したばかりの船谷さんの奮闘は、予期せぬ災害を乗り越え、一つの「地域おこし」につながったのではないだろうか。

「せっかく知り合ったボランティアさんとの交流を、このまま終わらせたくないんです。11月25日に開催される『にのしま愛らんどフェスタ』には、ぜひボランティアさんに島に来てもらいたい。感謝の気持ちで歓迎し、楽しんでもらいたい。招待客としてではなく、何か一緒にできたら…」

地域おこし協力隊、船谷さんなりの「地域おこし」は、災害を乗り越え、まだまだ続いていく。

 

いまできること取材班
文章・門田聖子(ぶるぼん企画室)
撮影・堀行丈治(ぶるぼん企画室)

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