倉田水樋

 17世紀半ば、長崎の町の大半を焼き尽くす大火事があった。回船問屋の2代目だった倉田次郎右衛門は、水を確保しやすければ被害拡大を防げたはずだと、水道の敷設に立ち上がった▲市中66カ町のうち50カ町余りに水管を巡らせ、中島川そばの湧き水を流す大事業。倉田は莫大(ばくだい)な費用を賄うため船も家屋敷も売り払い、それでも足りずに長崎奉行所に資金援助を仰いだ。そうして1673年に完成した▲倉田の徳をたたえて「倉田水樋(すいひ)」と呼ばれたこの民営水道は、利用者から料金を取って維持管理費を賄った。明治初期までの約200年間、長崎の暮らしを支え続けた▲時は流れ、水道事業は市町村の公営となった。蛇口から水が出るのが当たり前になった普段の生活の中では、水道のありがたみに思いをはせる機会は少ないかもしれない▲その公営水道には、水道管の老朽化や人口減という現実が迫っている。先日成立した改正水道法は、自治体の事業負担を軽くするため、民間事業者に運営を委託するハードルを引き下げた▲もし水道が実際に民営化されれば、利益優先の経営によって不当な値上げや水質悪化などのトラブルが生じるのでは-。不安の声が聞こえてくる。そんな時には、民間事業者の先達である倉田の志を、あらためて振り返ってみたくなる。(泉)

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