伝説の「10・19川崎球場」もう一方の主役 有藤氏が語った「あの日」【後編】

「10.19」は今もなお記憶に深く刻まれている(写真はイメージ)【写真:Getty Images】

こだわったタイトル争い「少しでも選手にチャンスを与えないと」

 野球人の情が創出したストーリーだった。1988年10月19日、川崎球場。あの時「球史に残るヒール」と言われたロッテオリオンズには、人間臭さがあった。主役として語られる近鉄サイドからではなく、敵役となった敵将・有藤通世氏が語った「あの日」。

 最下位のチーム成績とは異なり、同年、ロッテ勢にはタイトルホルダーもいた。西村徳文(現オリックス監督)が55個で盗塁王、小川博が204個で奪三振王を獲得。中でもシーズン終盤、首位打者争いの渦中であった高沢秀昭の起用方法に苦心した。タイトルを争った阪急・松永浩美に11打席連続敬遠も行っている。

「試合前はチームの勝敗よりも、個人成績のことが頭にあった。うちにとって大事だったのはタイトルがかかっている選手。そして、来季に向けての契約などもありますから、少しでも選手にチャンスを与えないといけないということ」

 特に有藤氏の思いは、1打席の結果で左右される首位打者争いにあった。

「特に気を使ったのは、やはり高沢の首位打者争い。僕も打者だったから打率の上がり下がりは、嫌というほど経験してきた。少し感覚が鈍っただけで結果が出なくなって、打率は下がる。本塁打や打点と違って、打率は下がるから首位打者というのは本当に難しいんだよ。試合前に頭を悩ませたのは高沢の使い方だけだった。とにかく首位打者を獲らせてやろうと思った」

 第1試合からスタメン出場した高沢だったが、3打席凡退し4打席目に代打交代。試合中に関係者が高沢の打率を計算し、第2試合も出場した上で首位打者を獲得できる状況を優先してのものだった。その試合で最終打者となったのが高沢の交代選手だった、というのにも皮肉だ。そして第2試合では、近鉄優勝の夢を打ち砕いた同点本塁打を放ち、打率.327で首位打者も獲得した。

「本当に頭が真っ白だった。審判に何を言ったのかすら覚えていない」

「牛島には本当に悪いことをした……」

 そしてもう1人、有藤氏の口から出てきた選手名があった、牛島和彦である。87年に24セーブで最優秀救援投手、88年も25セーブで最多セーブ数を記録した球界きってのクローザー。88年はポイント数で近鉄・吉井理人に最優秀救援投手を譲ったが、セーブ数ではリーグトップに立っていた。そのため牛島には、「この日の登板はない」、ということが伝えられていたという。

「牛島は投げさせるつもりもなかったし、本人にも出番はないことを伝えていた。彼自身、毎年たくさん投げていたから、疲労もあるだろうしね。でも、試合展開や球場の雰囲気もああいう風になっていって、僕自身も少し冷静さを失った。やはりそこまで近鉄に負け続けていたのもあったんだろうね。試合前には勝っても負けてもいい、と思っていたけど、逃げきれそうな状況だったので牛島を投げさせることにした。1死からだったし、牛島も当然、気持ちの準備もできてなかったはずだよね」

 同点であれば9回で試合打ち切り引き分け、この時点で西武優勝が決定する。同点で迎えた9回表、1死から二塁打で走者が出た場面でのスクランブル登板だった。そして、牛島は2人目の打者、代打・梨田に勝ち越し適時打を許し、ロッテは敗れた。

 迎えた第2試合。4-4の9回裏、二塁塁上でのタッチプレーをめぐり有藤氏は抗議を行った。この時に試合時間は3時間30分を過ぎていた。「試合開始から4時間を過ぎた場合、次の回には入らない」。当時のレギュレーションで定められていたため、近鉄には時間との戦いもあった。しかし、結果は引き分けに終わり、近鉄優勝がなくなってしまう。

「本当に頭が真っ白だった。審判に何を言ったのかすら覚えていない。もちろん何分、試合時間が残っていて、それを過ぎると次の回へ入れないなんてのもなかった。とにかく判定がおかしい、と思って抗議に出たのまでは覚えている。気が付いたら少し冷静になって、抗議を止めようと思ってベンチに帰り始めていた、そうしたらスタンドからの怒号がすごかった」

意地、誇り、矜持、雰囲気…様々な要因が絡み合い生まれたドラマ

 この抗議は大きくクローズアップされ、優勝の可能性が皆無になったが10回裏を戦わざるをえなかった近鉄選手たちへの同情、そして有藤氏への批判めいたものもあった。しかし、その日の有藤氏の采配、行動は、様々なものが絡み合って偶発的に起こってしまった。野球人の意地、誇り、矜持、球場の雰囲気……そういった、目に見えない多くのものが牛島登板、そして抗議などを作り出してしまったというのは乱暴だろうか。

 当事者の話を聞くほど、理屈やフィクションではない人間臭さが伝わってくる。最高峰のプロの世界とはいえ、究極のシチュエーションで冷静さを保つことは並大抵でない。情や気持ちの変化も戦況に大きく絡んでくるということだ。

 あれから30年が経つ。昭和の名場面は平成をまたいでいく。しかし「10・19」に劣らないほどの勝負、名シーンが、今後も生まれてくるだろう。来るべき19年シーズンの開幕が今から待ち遠しい。

 最後に、有藤通世氏は野球人代表として語ってくれた。

「今の千葉なんて順位が決まった消化試合でも、そこそこお客さんが来てくれる。どこの球場もそう。やっぱり羨ましいよね。人間だから、見ている人がいれば気持ちも高まるよ。だから、どんどん球場に来てほしいし、選手もそれに応えてほしい。選手のさらなる力を発揮させてくれるはずだから」(山岡則夫 / Norio Yamaoka)

山岡則夫 プロフィール
 1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌Ballpark Time!を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、製作するほか、多くの雑誌やホームページに寄稿している。最新刊は「岩隈久志のピッチングバイブル」、「躍進する広島カープを支える選手たち」(株式会社舵社)。Ballpark Time!オフィシャルページにて取材日記を定期的に更新中。

© 株式会社Creative2