<最後の将軍>徳川慶喜と孤高の芸術的感性 謹慎・隠居生活の中での多才な創作活動

「徳川慶喜」(松戸市戸定館刊行)

英明と変節

明治維新150年も間もなく終わる。徳川幕府・800万石最後の将軍の生き様を語りたい。

私は千葉県松戸市戸定(とじょう)歴史館(旧徳川水戸藩別邸)に年数回足を運ぶ。特別展が開催されていないときには庭園や館周辺の木立の中を散策する。その都度、徳川慶喜の77年の生涯を考える。そして「ただ者ではない」と思う反面、「悲運を強要された男」と同情心がわく。慶喜は<「英明」一世を覆った>徳川幕府最後の将軍である。彼の英明・俊秀ぶりはつとに知られている。かつてない「内憂外患」の幕末を通じて常に中央政局の中枢に身を置いた慶喜の行動は、崩壊寸前の危機的状況のもとにあって一定の「明快さ」を持っている。だがその行動に「一貫性」を見出すことは容易ではない。それどころか、慶喜には「変節」がつきまとう。

慶喜は元治元年(1864)の参預会議の中で、開港論から鎖港論へ数日を経ずして突如意見を変えた。慶喜に好意を寄せる者、あるいは慶喜と協調せざるを得ない者は、それだけに慶喜の「変節」に困惑し、躊躇し、そして最後に不信・失望を覚えた。慶喜は幕臣らから「二心殿(にしんどの)」と陰口をたたかれた。水戸藩以来の朝廷派なのか、はたまた将軍を護持する幕府派なのか、という疑義である。

紆余曲折を経て、慶喜は慶応2年(1866)12月、徳川幕府15代将軍の座に就いた。解決を迫られる2つの緊急課題があった。兵庫開港問題と長州処分問題である。松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光の4侯(雄藩大名)は、慶喜が意見を求めたのに応じ政局の安定を意図して上洛した。世にいう4侯会議である。4侯は兵庫開港と長州処分における長州藩の全面復権とを主張した。しかし慶喜と4侯との協議は結局のところ失敗に終わった。慶喜が、長州藩の全面復権の決定を先議すべきだとの4侯、とりわけ島津久光の要請を蹴って、兵庫開港のみを強引に承認させたからである。

4侯会議の解体後、慶喜政権は一段と孤立化の色を濃くした。だが将軍慶喜は安閑と日々を送ることは出来ない。幕府討伐論がかまびすしくなってきたからである。緊迫した状況下で、慶喜は大政奉還・諸侯会議を主張する土佐藩論を知った。土佐藩建白を待つようにして、慶喜は大政奉還の建白を朝廷に上程した。慶応3年(1867)10月14日である。江戸幕府は幕を閉じた。しかしながら大政奉還が慶喜にもたらしたものは、以前にもましての状況の混迷であった。大政を奉還した以上、慶喜は表面だった行動をとりうる立場にない。慶喜は何らなすことなく、12月9日の王政復古のクーデタを迎えざるを得なかった。王政復古のクーデターの後も、慶喜は依然として有志大名に期待した。兵を大坂に引き上げ自己の軍事力を誇示して京都の新政府に威圧を加えつつ、有志大名への期待をつないだ。

徳川慶喜の墓地(谷中霊園)

鳥羽伏見の戦い、江戸城への逃避

だが鳥羽・伏見の戦いは徳川軍の敗北に終わった。慶喜は自ら一戦を交えることなく、逃げるように江戸へ帰った。幕府軍は指揮官を失い総崩れとなった。慶喜は新政府軍(西軍)との交渉を幕臣・勝海舟にゆだねた。

幕末の老中格・立花種恭(たちばな たねゆき)の回想によると「いよいよ恭順と決し諸向に達すと、満城の士が泣き出すもあり、落胆するもあり、それはそれは大変な事でした。榎本武揚は満座の中へ突っ立ち上がり、将軍様は腰が抜けたか、恭順するとはと叫び、大久保一翁は榎本は感心な男だと大層に賞賛しましたが、しかしこの中で腰が据わっているのは勝安房(海舟)一人だと言いました」。西軍の東征を迎えて、抗戦か恭順かを議した江戸城での最後の大評定の様子である。痛憤、怒号、涕泣、憤激、悄然の渦巻く中に、毅然として動かざること山の如き勝海舟…(「それからの海舟」半藤一利・参考)。

榎本武揚や大鳥圭介ら主戦派家臣に関しては、彼らが幕府軍を率いて北上し東北各地で転戦して敗北するにまかせ(戊辰戦争)、慶喜自らは謝罪の意を表して恭順・蟄居したのである。確信的決断(倒幕)のもとで行動する薩長討幕派と徳川家臣主戦派とが真っ向から対立する状況のもとでは、慶喜のリーダーシップは分解せざるを得なかった。そのことは慶喜における「変節」の終焉を意味した。つまり政治生命の終焉であった。

慶喜作の油絵(松戸市戸定館所蔵)

芸術愛好家の感性

明治2年(1869)9月、<敗軍の将軍>慶喜は謹慎を解かれ、郷里水戸から徳川家の新封地である静岡に移った。慶喜の第二の人生(隠遁)の始まりである。以後、慶喜は歴史の中で永久に姿を没した。静岡では、かつて代官公邸であった屋敷に住んだ。隠棲したといっても、慶喜はこの時数えでまだ33歳でしかない。壮健な慶喜には、その後長い春秋が待っている。慶喜は政治や俗世間との交渉を一切拒否し、才能に任せて趣味の世界に没頭した。何よりも好んだのが大弓、打毬(だきゅう)、投網それに鉄砲猟、放鷹(ほうよう、鷹狩)であった。さらには宝生流の謡曲や囲碁を稽古し、油絵・書道にも挑んだ。彼は何事にも徹底して取り組む教養人・趣味人である。慶喜は天性多芸の凝り性であり、できぬことのない知識人だった。

私は慶喜の絵画(油絵)に注目している。芸術的感性が映える作品が多く、傑作も少なくない。彼は幼少のころから絵を描くことが好きで、一橋家にいる頃も奥絵師狩野探淵を呼んで山水画を学んだ。慶喜がそれ以上に興味を持ったのが油絵(洋画)である。幕末期の油絵はまだ初歩的段階に過ぎなかったが、彼は旧幕臣の画家中島仰山(鍬次郎)から進んで手ほどきを受けた。画材がなかったため、カンバス、絵の具などの油絵具、絵具入れなどを自ら作っている。図録「没後100年 徳川慶喜』(松戸市戸定歴史館刊)を参考にして、作品の一部を見てみよう。風景画や静物画が大半だが、西洋画法の遠近法、陰影法、油彩技法を完璧にマスターしている。

「西洋風景」という一連の作品は深い森をバックにした湖畔の石造り建築を描いている。見たことのない西洋の湖岸風景をボリューム感あふれるタッチで描いている。西洋の田園風景を描いた「風景」と題する作品群や「西洋雪景色」さらにはオランダの田園を思わせる「風車のある風景」など、いずれも秀作である。斬新な構図、のびのびした筆のタッチ、色彩感覚、何よりも静かなモチーフは、慶喜が<最後の将軍>として権謀術数の渦巻く幕末の最高政治指導者であったことを忘れさせる。
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彼は旧幕時代から自身が写真に納まることを好んだが、退隠後は撮影機を科学的に研究し現像するための暗室の中で徹夜することもあった。風景写真が好きで静岡近郊の四季折々の景色はほとんど撮った。洋風の刺繍にも凝ったようである。
彼の名誉回復は勝海舟ら一部旧幕臣の工作により、比較的順調に進む。明治35年(1902)6月公爵(最高位)を受爵した。同年7月京都に赴いた彼は孝明天皇陵に赴いている。彼の悲願が成就した日であった。

将軍として国を指揮した慶喜は、謹慎・隠居生活を強いられた時、様々な創作活動(芸術活動)に没頭することで、精神的発露の場を見出した。それは野に降り、詩書画に精神の自由を求めた、中国の文人士大夫の「世捨て」に通じまいか。書画同様に青年期から最晩年まで続けた慶喜の和歌を、最後に書きとどめておきたい。

楽しみは おのが心に 有物を 月よ花よと 何求むらむ

彼は海舟らを除き旧幕臣には原則として面会を許さず、40年余りの孤高で自適の歳月を送って77 歳の天寿を全うし、従一位勲一等公爵徳川慶喜として死去した。大正2年(1913)11月22日午前4時であった。葬儀は徳川家伝統の仏式をとらず遺志により神道の様式でとり行われた。

参考文献:「徳川慶喜と賢侯の時代」(会田雄次など)、「没後100年 徳川慶喜」(松戸市戸定歴史館刊)、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)

 

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