「アウトサイダーの逆襲!東南アジアからACLを狙う内田昂輔の挑戦記 vol.2」

唐突な質問となるが、※内田(山崎)昂輔というプロサッカープレーヤーのことをご存じだろうか。

彼のプロキャリアは立命館大学卒業の大分トリニータでスタートしたが、2シーズンで契約満了となり、(当時JFL)FC琉球を経て、モンテネグロのFKグルバリに海外挑戦。以降もオーストリア、ラオス、バーレーン、インドネシアと様々な国を渡り歩き、現在はミャンマーリーグのヤンゴン・ユナイテッドでプレー。ACL出場の目標を達成すべく奮闘している。

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ここまでの経歴を見れば察しの通り、彼のこれまでのサッカー選手としての人生はそうそう陽の目を浴びるものではなかった。いわゆる『アウトサイダー組』の代表格である。

しかし、その歩んできた半生は、王道的なキャリアを積み重ねる選手たちとは明らかに一線を画したもので、それ故に人を引き込むだけの魅力が十二分に詰まっている。

「自分のキャリアなんて、決して自慢できるものではないですよ(笑)」と、本人はこれまでの生き方を謙遜する。

しかし、多くのサッカーファン、そして、これからプロサッカー選手を目指す者たちにとって、そのストーリーの全てが感慨深いものになるだろうと、筆者は彼の話に耳を傾けながら感じた。

これまでの道のりは決して順風満帆なものではなかったかもしれないが、目標と真摯に向き合い、そして確実に歩を進める彼の生き様から何かを感じ取って頂けると幸いだ。

インタビュー・文:カレン

写真提供:内田昂輔

※現役中に登録姓名を内田から山崎に変更しているが、今回のインタビュー内では内田としている。


カレン(以下、太字――):「大学に入ってみたもののプランがまんまと崩れた」という話ですが…何があったのでしょうか?

内田昂輔(以下、省略):いざ、立命館に行ってみると、色々と難しいことが待ち受けていたんです。

というのも、教員資格を取るために教育実習で二週間くらい練習を抜けると、BチームかCチームでプレーした後、Aチームまで戻らないとダメで…。

━━なるほど。そういうシステムが…。

そうなると、関西選手権(関西学生サッカー選手権大会)、総理大臣杯(総理大臣杯全日本大学トーナメント)でプロ入りをアピールするチャンスがなくなるわけで、教員免許は教育実習以外は全て済ませておき、プロを目指すことに専念しました。

━━大学一回生の時にはブラジルとアルゼンチンにも留学したようですね。

昔からキングカズ(三浦知良)に憧れていたこともあって、一度同じように「ブラジルへサッカーしに行ってみたいな」という気持ちを漠然と抱いていたんです。

で、大学入った後に滝二の時のコーチが紹介してくれて、夏休みを利用して一カ月間だけ行きました。

元々はブラジルだけの予定だったんですが、現地の方が「せっかくだからアルゼンチンもどう?」と声を掛けてくれて、「じゃあ、行ってきます(笑)」という流れでアルゼンチンに寄り道しました(笑)

━━当時を振り返ってみてどうですか?

やっぱり、行ってて良かったなと思います。

ブラジルから立命館の監督に「大学やめてこっちに残りたい」と電話したぐらいなので(笑)もちろん、「ダメ」と言われましたが(笑)

あの経験があって、今の僕の生き方があるというか…色々と繋がっている部分はありますね。

━━本場のサッカーは違いましたか?

ブラジルでは最初ユースチームで途中からトップチームに上げてもらったんですが、ちょっとイメージと違いました。

どこかブラジルってドリブルの印象が強いですが、実はワンタッチツータッチでのシンプルなプレーがめちゃめちゃ上手いんですよ。そして、フィジカルコンタクトが本当に強い。とにかく、吹っ飛ばされましたね(笑)

日本であそこまでやられたことはなかったので、ブラジルと言えば、こねくるような上手さよりもその衝撃のほうが印象に強く残っています。

━━南米は予想以上に対人戦が強いとよく聞きます。

普通に体が浮きましたからね(笑)

それで言うと、アルゼンチンもかなりハードで、あからさまに足を狙いに来るんですよ。

━━サッカーをしている人間なら誰でもわかる「この角度で行ったらまずいよね」というところからでもガツガツくるんですね(笑)

そうです、それが当たり前(笑)実際、行って早々に足首やられて、パンパンに腫れましたからね…。

でも、滞在できる期間が二週間しかなく少しも休みたくなかったので、頑張って乗り越えました(笑)

━━大学サッカーに戻ってきて何かプレーに変化はありましたか?

どうでしょう。自分で「これ」というのは難しいですが、そこからガツガツいくプレースタイルに変わっていった気がしますね。

当時は今と違ってポジションは前目だったり、サイドだったんですが、その重要性を考えるようになった感じはします。

━━その後、具体的にプロ入りに近付けたのは?

近付けたのは大学三回生の時ですかね。その年の終わりに関西選抜に入って、デンソーカップ出れるようになって、ようやくプロチームからも見てもらえるようになった感じです。

とは言え、まだまだ怪しいレベルでしたね。大学もそこまで積極的にJリーグに選手を送り込むようなところではなかったので、プロチームから具体的に声が掛かるようになるまで、なかなか状況がわかりにくいんですよ。なので、「結局、この先どうなんのかなぁ」という思いはありましたね。

ただ、振り返ってみると、大学時代は良い思い出ばかりです。

四回生の時は副キャプテンになって、キャプテンや他の幹部らと「とにかく、勝つために」ということで、ひたすらミーティングをしまくったり…色々な経験をさせてもらえました。

━━練習参加などは?

Jリーグで練習参加させてもらえたのは大分トリニータだけでしたね。四回生の終わり、9月頃になって初めて。

もっと早くから参加できる選手もいる中で、僕は本当に遅かったです。

━━当時の大分はペリクレス・シャムスカ政権が終わり、ランコ・ポポヴィッチがシーズン途中に就任しましたが、J1からJ2へ降格した頃ですね。

そうです。ただ、僕が練習参加していた頃は本当に強かったんですよね。シーズン終盤に連勝していたし、選手も家長選手や清武選手もいたりして、すごいメンバーが揃っていました。

━━懐かしい時代ですね。ボランチにもとんでもない選手がいたのでは?

エジミウソンですよね?彼は本当にやばかったです。未だにあの時の衝撃は忘れられません(笑)

紅白戦とかでマッチアップすることもあったんですが、「全部のプレーに関与しているんじゃないか」と思えるような感覚でやっていて、まさに異次元でした。

そんな環境だったので、なんとかチームに付いていくことで必死でした。練習もめっちゃしんどかったし…。

なので、入りたい気持ちは強く思っていましたが、同時に「こんなチームが自分を獲得してくれるのか」という気持ちにもなりましたね。

━━衝撃度で言うと、家長選手もすごかったのでは?

いやー、あの人も凄まじかったです(笑)同じ京都出身で、数々の都市伝説をお持ちの方でしたし、昔から一方通行では知っていたんですが(笑)

━━当時、関西でサッカーをしていた人間は誰もが知っている、“超”が付くほどの有名人だったことを私も記憶しています。

「僕も京都なんですよ」から入って、お話させてもらったりしていたんですが、僕が練習参加していた頃は怪我明けだったんです。たしか、二日目まで別メニューで調整中だったのかな。

でも、練習に合流した途端にとんでもないプレーを連発してくるんです!「この人、エグすぎる!」って心の中でつぶやいてました(笑)ボールが全然取れないんですよ(笑)

━━あのキープ力はどこから来るんでしょうね。

筋力とか体幹なんですかね。とにかく、首も太かった印象です。

そのフィジカルの強さで、地元では「家長はサッカーだけではなくラグビーもやっている」とかいう話も出てましたよ(笑)

━━その後、最終的に念願であったプロ入りが叶います。しかし、練習参加時は監督がポポヴィッチで、入団後に監督がファンボ・カンに変わるというパターンでした。

そうなんですよね。ポポヴィッチが僕の入団を決めてくれたんですが、いざ入ってみると、もうチームにはいなかった。獲得に動いてくれていた強化部長も変わりました。

━━その時の不安はなかったんですか?

具体的に入団の話が出た後に「経営危機」の問題が浮上したんですよね。当時は「チームがなくなるんじゃないか」という話までも出ていました。

なので、実際に「契約」を結んだのは年が明けての1月とかで…提示条件もなかなか厳しいものでした(笑)

ただ、当時の僕はプロに入れるだけで嬉しかったので、当然サインしました(笑)

━━入団後はどうでしたか?たしか、チームもファンボ・カン体制になって戦い方が変わり、基本システムも4バックに変わりました。

そうでしたね。最初は一つ前のポジションでやっていたんですが、シーズン途中に左サイドバックの選手が累積警告か何かで出場できない時があって、そこからは左サイドバックで使ってもらいました。

━━サイドバックの経験は?

いや、全くでした(笑)中学の時のコーチがサイドバック経験者だったこともあって、「ちょっとやってみないか」と言われてかじったぐらいです。

自分が入った時も、チームの主力だった鈴木慎吾さんが抜けて、その左サイドハーフ候補として入団した感じでしたからね。

━━思っていたポジションとは違うポジションでの起用となったわけですが、当時の心境は?

まぁ、前はめちゃめちゃ上手い選手ばかりだったので、「自分が生き残っていくにはこのポジションかな」と思うようになっていましたね。

東(慶悟)、(キム・)ボギョン、河原(和寿)さん、(高松)大樹さん、前田(俊介)さん、モリシ(森島康仁)などが錚々たる面子が揃っていましたから。

後は、実際にチームに入ってみて、「自分がJで戦える部分は上下動」と考えるようになったので、継続して試合に出るためにも「サイドバックで勝負」だと思ってやってました。


大分トリニータで念願のJリーガ―となるが、その後はまさかの「海外生活」に突入。波乱万丈の日々を振り返る『Vol.3』も乞うご期待。

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