「あの国に何があるんや」―“松坂世代”の久保康友が米独立Lに挑んだ理由(上)

アメリカ独立リーグ挑戦を振り返った久保康友【写真:沢井史】

昨オフにDeNAを自由契約となり今春渡米、通算97勝右腕がこの1年間を振り返る

「考え方って1人1人ものさしが違うので、色んな解釈のしかたがあります。自分のことが参考になるのか分かりませんが……」

 取材の冒頭で久保康友はいきなりこう切り出した。ロッテ、阪神、DeNAでプレーしたNPBを去り、アメリカ独立リーグに挑戦したニュースが飛び込んできたのが昨春。以降、現地での姿が何度かメディアに取り上げられたことはあったが、細かい情報が得られなかった。野球シーズンオフの12月。その足取りについてひとつひとつ尋ねると、久保は今までにない朗らかな表情を見せながら振り返ってくれた。

 関大一高(大阪)時代はエースとして3年春選抜で準優勝。決勝戦で松坂大輔(横浜=当時・現中日)と投げ合ったことはあまりにも有名だ。夏の甲子園も北大阪代表としてベスト8まで進み、高校野球を終えるとプロに行くか進路に注目が集まっていたが、実は高校時代は1度もプロを意識したことはなかった。

 甲子園に出場したことで周囲の評価が一気に上がり、そこからプロへの欲望が掻き立てられるのはよくある話だが「それは周りが変わっただけ。自分は何が変わったとか、成長した実感はなかったです。それでもプロに行きたいとか言ったらただの勘違いでしょう」と大舞台に立った自分に酔うことはなかった。実際にプロの試合を見ても当時の自分がその世界で投げることが想像できなかった。「こんなレベルの中で自分は絶対に通用しない。それでも良いって言われても、その言葉にどうも納得できなくて。反対に周囲が信用できなくなるほどでしたよ」と振り返る。

 当初は大学進学を目指したが受験に失敗し、松下電器(現パナソニック)に進んだ。実はプロに行くまでの6年間のうち4年間、結果を残せていなかった“空白の時間”がある。

「実力がなかったというのがもちろんなんですけれど、当時の自分は素直だったというか……。色んな方の助言を鵜呑みにして、何でも聞き入れていたんですね。そうしているうちに自分を見失ってしまって。フォームもバラバラで、どこに投げても打たれていました」

 5年目を迎える前に、自分の野球人としての危機感を感じるようになった。「このまま自分はクビやろうな」。大きな大会では登板機会はなく、大学生相手のオープン戦に数イニング投げる程度。自分の活路が見いだせなくなってきた時、ある決意をした。

「こうなったら、余計なことを考えずに、最後は野球を楽しんで終わろうかなと」

昨オフ自由契約もショックはなし「立ち上がってGMと握手していたんですよ」

 室内練習場にこもり、実戦形式のバッティング練習の打撃投手を始めた。先輩の打撃練習相手に投げるだけだが、フォームや球種、スピードなど何も考えずに自分の好きなように投げ、打球を見て「今のは二塁打ですね!」など打者に声を掛けて盛り上がった。いわば“遊び感覚”ではあったが、投げていく中で自分がどう表現したいかを考えられるようになった。そのうちフォームのバラつきがなくなり、自身の感覚を掴めるようになってきた。

「自信が出てきたというより“割り切り”でしたね。どうせ自分はもう辞めるんだし……みたいな感じで、何でも思うがままに楽しくやろうって。それが良かったのかもしれません」

 6年目はその“自分”が染みついた安定したフォームで148キロを計測。ただ、社会人の第一線で投げていくうちに、走塁の長けた打者と相対する機会が増えていき「投手は投げるだけではダメ」とフィールディングやクイックモーションなど投げる以外の技術も身につけ、勝てる投手に成長していった。プロアマ交流戦でプロの打者を相手に抑えられたことで「今なら自分はプロでやっていけるかもしれない」と自信も手にした。“松坂世代の最後の大物”として04年ドラフト会議でロッテから現在のドラフト制度で言うと1位指名となる自由獲得枠にて指名を受けることになる。

 そこからロッテ、阪神、DeNAと3球団を渡り歩き、13年で通算97勝を挙げるまでの大投手にまで成長した。だが、2017年オフにDeNAを自由契約に。ショックは計り知れなかったのかと思いきや、実はすっきりしていたという。

「GMに呼ばれて、(自由契約と)言われた時、自分、立ち上がってGMと握手していたんですよ。『今までお世話になりました』って。おそらくこんな振る舞いしたのは自分だけじゃないですかね」

 各球団に所属していた頃は「チームの力になれるように」と、何事にもがむしゃらに取り組んできた。だが、高校時代からプロだけを見つめて血眼になって練習してきた訳でもない。それなのにプロに入りたい一心で貪欲になって入団した選手が、実力が伴わず戦力外通告されるのを何度も見てきた。そんな中、久保はある“違和感”にさいなまれてきた。

渡辺俊介の体験談を聞き「驚きました」…「あの国に何があるんや」

「自分はそこまで必死に食らいついてプロになった訳ではないのに、自分より頑張っても一流になれずに辞めないといけない選手がいました。そのことにずっと罪悪感があったんです。自分はこんな気持ちでプロ野球選手としてプレーしていいのかと。プロは実力の世界だし、能力があれば一流になれるんでしょうけれど、辞めなければいけなくなった選手は努力の仕方が間違っていたり能力に恵まれなかったから続けられなかっただけで、自分より野球に対する思いが強い選手はたくさんいました」

 自由契約が公示された後、「まだプロでやれるでしょう」という声もあった。でも17年のシーズンで登板したのはわずか7試合。4勝は挙げたが、納得のいく内容ではなかった。

「客観的に見て、自分の年齢(当時37歳)から考えてもチームに残る価値はないと思いました。『やれる』というのは自分を良く見積もっているだけで、チームとしては必要ないかなと。だからチームから必要がないと言われたら、その意見に従うつもりでした」

 退団後は野球を続けることすら決めていなかった。続けるにしても国内でやるのはどうしても気が進まず、その後を模索しながら年の瀬を迎えていた。シーズンオフに野球関係者をはじめ色々な人と会い、アドバイスをくれる者もいる中、ロッテ時代の先輩の渡辺俊介(現新日鉄住金かずさマジックコーチ兼投手)と食事をする機会があった。

 渡辺はロッテを退団後、アメリカやベネズエラの独立リーグでプレーした経歴を持っており、当時の経験談を聞いた。

「2年間、向こうでプレーして実際どうだったか聞くと、そこまで大変ではなかったと。それどころか『意外と何とかなるよ』って。渡辺さんって元々きっちりして、すごく細かい方なんですけれど、そんな人の口から『どうにでもなる』って言葉が出るんですから、驚きました。『あの国に何があるんや』って(笑)」

 そこからアメリカの独立リーグへの興味が徐々に強くなった。どうせなら思い切ったことをしたい。海外ならアメリカよりメキシカンリーグの方がレベルは高く、陽気な選手が多いと聞き、当初はメキシカンリーグに行くことを希望していた。エージェントを紹介してもらい、受け入れ先を探したがたどり着いたのはアメリカの独立リーグ。ある球団との契約にこぎつけ、「チケットを送るからそれで来てほしい」と言われたものの、チケットがなかなか送られて来ず、2か月以上が経過した。練習をせずにひたすら待っていたため、練習をしていなくても加入できるチームをエージェントに探してもらい、アメリカンアソシエーション(独立リーグ)に所属するゲーリーサウスショア・レイルキャッツに入団することになった。(続く)(沢井史 / Fumi Sawai)

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