【平成の長崎】67回目 長崎原爆の日 米大使無言のまま退席 平成24(2012)年

 8月9日、被爆から67年となった長崎では、原爆犠牲者を慰霊する平和祈念式典に駐日米大使や原爆投下を命じた元米大統領の孫らが初めて参列し、「あの日」の惨禍と向き合った。原発事故で放射線の不安におびえる福島県からは川内村長らが出席。被爆2世は被爆体験の継承へ決意を新たにした。

 駐日米大使として初めて長崎市の平和祈念式典に出席したルース大使は、5千人以上が参列する会場に開式5分前、SPに警護されて姿を現した。硬い表情のまま特別来賓席に着席。そして、閉式と同時に無言で立ち去った。原爆投下国の代表として謝罪の言葉はなかった。「怒りは消えない」「平和への思いを聞いてほしい」-。大使そして原爆投下国に対する遺族、被爆者らの思いは交錯した。

 「無防備の市民十数万人が死傷したあの凄惨(せいさん)な光景が昨日のようによみがえり、胸が締め付けられる」。壇上で「平和への誓い」を読み上げる被爆者代表の中島正徳さん(82)。黒焦げになって死んだ母や弟、重傷を負って5日後に息を引き取った3人の弟妹-。原爆の非人道性と積年の苦悩を語り続けた。大使は、イヤホンから流れる通訳を介して確かに聞いていた。

 式典後、中島さんはこう述べた。「原爆投下の怒りは消えない。だが(大使が)来ないよりはいい。大使と話をしたかった。被爆の惨状を米国民に伝えんばいかんのです」

 「原爆を投下したのによく出席できるな」。原爆で父を亡くした被爆者、堤昌己さん(72)=西彼長与町平木場郷=は、会場で辛辣(しんらつ)に語った。恨んでも仕方ないと思いながら67年間、割り切れないできた。「米国は罪の意識を持ち、二度とこんな爆弾を造らないと誓ってほしい」

 叔父を亡くした被爆者、井上スガさん(83)=同市柿泊町=も複雑。「原爆がなければ多くの人が死なずにすんだ。このつらさや苦しさを大使が少しでも感じとってくれたら救いです」

 一方で、長岡宏幸さん(77)=同市鳴滝1丁目=は「未来の平和を考えると米大使が式典に出席するのはいいこと。これをきっかけに核廃絶に動いてほしい」と期待感を示した。

 日本被団協顧問の山口仙二さん(81)はこの日、雲仙市小浜町のケアハウスの一室で過ごした。午前11時2分、サイレンが響くと「何年たっても鮮明に思い出す」とぽつり。「大使は覚悟の上で来たんだろう。声に耳を傾けようという姿勢の表れだろうから気持ち良く迎えてあげるべきだ。被爆者の声をちゃんと伝えればいい」と優しく話した。

 原爆の日、核大国の無言の大使には何が伝わっただろうか。足早に立ち去る背中に、追いすがる記者が英語で質問を投げかけた。「ここで何を感じましたか」。大使が振り返ることはなかった。(平成24年8月10日付長崎新聞より)
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【平成の長崎】は長崎県内の平成30年間を写真で振り返る特別企画です。

式典会場で硬い表情を崩さなかったルース駐日米大使=長崎市、平和公園

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