アジア王者を決める4年に一度の大会、AFCアジアカップが開幕を迎えた。
我が日本代表は背番号10を背負うはずだった中島翔哉が負傷のために離脱することに…。
ここでは、1988年大会以降の10番たちを振り返ってみる。
香川 真司(2011、2015)
直近の2大会で10番を託されたのは、香川真司。ただ、彼にとっては苦い思い出になっているかもしれない。
2011年大会は地元カタールとの準々決勝で大暴れ。だが、韓国との準決勝で右足中足骨を骨折して離脱…。李忠成の劇的ボレーで決着したオーストラリアとの決勝には出場できず。
そして、前回大会はUAEとの準々決勝で無念のPK失敗。準決勝にすら進めず、涙を呑んだ。
中村 俊輔(2004、2007)
40歳にして現役を続ける日本が誇る史上最高レフティのひとり。
中国で行われた2004年大会は、川口能活が“神”になったヨルダンとのPK戦が印象的だろう。
ただ、中国を3-1で撃破した決勝では俊輔が全得点に絡む大活躍。大会MVPに選ばれた彼の存在は本当に頼りになった。
一方、4位に終わった2007年大会では1得点だったが、2度のPK戦では1人目のキッカーとしてどちらも成功させている。
名波 浩 (1996、2000)
優勝を果たした広島大会から4年、加茂周監督の下で連覇を狙った日本代表でボランチに配置されたのが「10番」名波浩だった。
グループステージでは3連勝、名波もウズベキスタン戦でゴールを決めたものの、ベスト8でクウェートに敗れた。
その悔しさをバネに挑んだ2000年大会は、トルシエ監督の下で左WBの中村俊輔と見事なコンビを形成。圧倒的な力で優勝を果たし、名波浩は大会MVPに輝いている。
ラモス 瑠偉(1992)
日本代表がアジアで揺るぎない地位を築くきっかけとなった1992年のアジアカップ。そんな歴史の転換期となった大会で10番を背負ったのがラモス瑠偉だ。
1970年代にブラジルから来日し読売クラブで黄金期を築いた司令塔は、1989年に帰化をして代表入り。
1992年に就任したオランダ人ハンス・オフト監督とはサッカースタイルを巡って激しく対立したが大会前に和解し、初優勝に貢献した。
大榎 克己(1988)
80年代までの日本代表は五輪のプライオリティが非常に高かったため、同年開催のアジアカップは予選不参加も珍しくなかった。
ようやく初めて予選を突破したのが1988年大会。日本の10番を背負ったのは大榎克己である。
長谷川健太、堀池巧とともに清水東三羽烏として注目され、早稲田大を経てこの年ヤマハに入団。
当時23歳だった彼が「アジアカップ初の日本代表10番」なのだが、実はこの時のチームは若手中心のB代表。大榎の代表初キャップは正式には翌1989年に記録されている。