下積み時代、壮絶な「試練」を乗り越え、愚直にラーメンの味を追究してきた。400を超すラーメン店を手掛ける「ギフト」の笹島竜也副社長(44)はマンハッタン区のE.A.Kラーメンなど、海外進出を支えた立役者だ。全米1000店を視野に入れつつ、後進の育成にも力を入れる。
ラーメン業界に足を踏み入れたのは23歳。転職を繰り返す中、偶然テレビで繁盛するラーメン店の特番を見た。「これだ」。翌日には、紹介されていたラーメンの系列店の門をたたいていた。「安直でしょう」と磊落に語る。
修業は皿洗いやオーダー取りなど下働きから始まった。早朝の仕込みや立ち仕事を苦ともせず、手際の良さが買われて1年で店長を任された。
3年ほど勤めた後に自身のさらなる成長のため、横浜にある有名ラーメン店へ移った。ただ、そこでは地獄が待っていた。既に仕事ができたことが災いし、「新入りのくせに」と妬みを買った。「まずいスープ出してんじゃねえ!」 「金返してこい!」「店閉めろよ」。客の前で罵倒され、ひどい仕打ちもされた。だが辞めたら負けだと、「試練」と捉えて耐え忍んだ。「調理の腕というより、相当心が鍛えられましたね」と苦笑する。
笹島さんが店長だった時の後輩に田川翔さんがいた。現在のギフト社長で「タツさん」と慕っていた。10歳近く離れていたが、仕事や仲間に対する価値観が似ていて打ち解けた。「当時は一緒に会社をやるなんて全く考えもしなかった」
偶然の縁から33歳で保険会社へ転職。「もうラーメンはきっぱり忘れる気でいた」が、36歳で再び、ラーメンの世界へ。独立した田川さんに「タツさん、一緒に良い会社をつくりましょう」と請われた。「田川となら絶対成功できる」。根拠はなかったが自信はあったと振り返る。
培ったフランチャイズ経営の手腕が加わり、田川さんが作る豚骨しょう油ベースが特徴の「横浜家系ラーメン」は全国でヒット。二人三脚で成長を続け、いつしか「世界に僕らのラーメンを届けたい」と夢見るようになった。
海外の出店は実質笹島さんが差配する。米国は日本と勝手が違って苦労も多い半面、「お客さんがおいしそうに食べてくれるのを見ると疲れも吹っ飛ぶ」と笑う。
日本と海外の二重生活で忙しい分、週末は極力家族と過ごし、月1度は夫婦2人きりでデートする。米国滞在中は仕事漬けで「会社のことだけ考えていたい」と貪欲だ。宿は、ニューヨークの事業を任せている宮下清幸さん宅に泊まる。同じく横浜時代に苦楽を共にしてきた後輩で、缶ビール片手に夢を語り合うのが道楽。「後輩、従業員が物心両面で豊かになってくれたらいい」。そのため会社をもっと大きく−。挑戦を続ける。