北上川を救え!大河はよみがえった 松尾鉱山からの「毒水」、永遠のツケ

旧松尾鉱山新中和処理施設(出典:Wikipedia)

雲上の<楽園>から<失楽園>へ転落

やわらかに 柳あおめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

天才歌人石川啄木の短歌である。北上川は、今日鮭が遡上し白鳥が飛来する東北地方が誇る最大の清流である。この大河が戦前から戦後にかけてほぼ半世紀もの間、松尾鉱山から流出する強酸性廃水によって、死に瀕していたことを知る人は意外に少ない(旧制中学生時代の啄木は、明治35年こと1902年に足尾銅山鉱毒事件の惨状を嘆いて短歌を読んでいる。夕川は 葦は枯れたり 血にまどう 民の叫びの など悲しきや)。

本年(2019)は、松尾鉱山(株)が会社更生法申請して倒産し、従業員全員の解雇か行われた昭和44年(1969)からちょうど50年・半世紀である。鉱山権が放棄され倒産して完全閉山となってから47年が経過している。倒産することで鉱山から排出する大量の酸性水を処理する責任者がいなくなった。曲折を経て当時の建設省(以下省庁名はすべて当時)による暫定中和処理から新中和処理施設建設に向かっていくことになるのである。

私は昨年(2018)11月末、同鉱山の現状や歴史に詳しい知人のK氏の案内で現地を訪ねた。初雪が降りつける松尾鉱山跡地(旧岩手県松尾村、現八幡平市松尾)は、廃墟となったアパート群などが不気味に立ち並び<ゴーストタウン>さながらで、わびしさと寒さが募るばかりであった。だが硫酸ガスで巨大な禿山となり何十年かかっても植物は再生しないだろうとまで言われた荒涼とした廃墟跡は、草だけでなく木々も茂っていた。遠くに雪を冠した岩手山が雪雲の上にほんの少しだけ見えた。

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「松尾の鉱山(やま)」(八幡平市教育委員会刊)の「序に代えて」(山口太郎氏)から引用する。

「交通公社・昭和39年(1964)の(観光)案内によれば『八幡平国立公園の東の入り口に松尾鉱山がある。明治35年(1902)発見された硫黄鉱山で生産量は日本一。鉱山鉄道の終点で降り樹海をバスで上ること30分。突然近代的なコンクリート住宅群が並ぶ元山地区(現緑が丘)に出る。一望全部鉱山の施設ですべて活気に溢れている。人口は1万5000人、近代都市としての設備、と聞いてびっくりする』となっていた。(隆盛を極めたのである)。降って昭和48年(1973)のそれには『八幡平国立公園の盛岡からの入口には松尾鉱山があった。昭和44年(1969)11月閉山以来無人となり赤さびた鉄塔や捨てられた廃屋がいやでも眼に入り鬼気迫るものがある』と近代都市(<雲上の楽園>)に驚いた観光客は、今度は廃墟(<運用の失楽園>)に眼を見張る」

松尾鉱山は、岩手県八幡平の中腹、海抜740~1030mに位置する東洋最大の硫黄鉱山だった。ここに鉱毒問題が発生する。鉱山操業が本格化した昭和8年(1933)頃から、松尾鉱山から排出する強酸性水による水質汚染が顕在化した。「柳あおめる」北上は赤茶色に濁り死の川となった。

東洋一の鉱山の「光と影」

「岩手県の百年」(山川出版社)などにより同鉱山の「光と影」を改めて検証してみたい。

松尾鉱山では、大正4年(1915)に飯場制度の中間搾取や制裁の過酷さに抗議する工夫のストライキが発生した。会社はその仲裁者として、労働者を直接雇用に切り替えるなどの収拾策を取った。一方、鉱毒水に対する流域農民の抗議(農業用水が確保できない!)と抵抗は昭和初期から続けられた。だが問題解決は戦後に持ち越された。

同鉱山は、昭和16年(1941)の重要鉱山指定と住友鉱業との提携で生産倍増、機械化推進、八戸専用ふ頭の設置と拡充と、政府補助金や価格調整補給金つきの「華々しい」発展期を迎える。しかし赤川・北上川鉱毒水汚染によるたびかさなる農民の補償要求運動をはじめ、昭和14年(1939)に突発した241人生き埋めの大落盤事故、さらには朝鮮人労働者や転廃業者の報告隊受け入れによる労働力補充などの「影」を背負う時期もあった。

松尾鉱山は、戦時下米軍機の空襲の打撃もあって、敗戦直後の生産は戦前の最高に比べて硫黄・硫化鉱とも1割以下に落ち込んだ。政府主導の補給金支給による生産奨励が再開されると、同鉱山は昭和22年(1947)には敗戦時の4倍近い24万トン余り、昭和25年(1952)には54万トンと、ほぼ戦前の水準を回復した。一時は日本の硫黄生産量の30%、黄鉄鋼の15%を占め、東洋一の産出量を誇った。鉱山労働者への福利厚生施設も充実していく。敗戦後間もない時期に、上下水道、ガス、暖房器具、水洗トイレ、セントラルヒーティングを完備した4階建て鉄筋コンクリート造住宅をはじめ集合住宅群さらには小・中学校・夜学高校、病院、映画館など、当時の最先端の施設が備わっていた。しかし「楽園」は続かなかった。

同鉱山の硫化鉱は昭和31年(1956)の6万5000トンをピークに減少傾向に転じ、1860年代からの公害規制に伴う重油脱硫により安い回収硫黄が市場に出回るようになって経営が悪化した。会社更生法適用申請、全員解雇、そして昭和47年(1972)にはついに閉山。松尾鉱業(株)も倒産して「義務者不存在鉱山」となった。広大な露天掘りの廃墟・廃坑と鉱毒水問題とが北上川流域住民に負わされた巨大なツケとなった。

松尾鉱業は岩手県の中で最大企業の一つであった。松尾鉱業の功績が大きかったたこともあって、県民は鉱山に反発心を抱かない傾向にあったという。東洋一の硫黄鉱山が岩手県にあるという誇りがあった(昭和51年・1976年になって元松尾鉱山の珪肺患者の遺族の訴えがやっと認められて労災補償を獲得している)。

日本一の硫黄鉱山の巨大なツケ

鉱山事業が行われた流域面積は赤川全体の7%ほどであり、北上川全体から見ると0.1%に過ぎない。それだけの地域から排出された「毒水」が総延長249kmの大河・北上川を無残な川に変えてしまった。

製紙工場から出た廃液による江戸川汚染の漁業被害をめぐって起きた乱闘事件をきっかけに「水質保全法」「工場排水規制法」が施行されたのが昭和33年(1958)である。水質を守るために制定された初の公害対策法であった。

一方、鉱山保全法では、会社は存続している限り鉱害の責任を追及され、自ら鉱害対策を行わなければならない。松尾鉱山もまた死ぬに死にきれないような状態で水処理を続けた。だが、不十分な処理により坑廃水はどんどん川に流れ込み北上川を汚染し続けた。追い詰められた松尾鉱山を視察に来た通産省を中心とする調査委員会が出した考えは、排水路となっている3メートル坑をプラグで塞いでしまうという方法だった。結果は、山中に満タンとなった坑廃水が上部の100m坑口から溢れだした。

この汚染水も結局は赤川にそのまま流されて、下の処理場では川水の一部だけを取って中和する能力しかなく、あとは河道に直接炭酸カルシウム(中和剤)を投げ入れ続けねばならなかった。この「お粗末」な処理方法も、会社更生法で行うことが出来たのは昭和47年(1972)4月の鉱業権放棄までであった。

休廃止鉱山の中でも、松尾鉱山の特異性はその規模の大きさだった。「国の補助金はあくまでも工事を行ったり、施設を建設することに対して出されるもので、水処理のランニングコストまでは含まれていない」との考え方は、通産省にとって最大のネックだった。

廃坑の鉱山跡から流出する大量の強酸性水は、赤川に流出し続け、これを中和するため、赤川に直接、中和剤を投入する暫定中和処理がとられた。しかし北上川汚濁問題は解決を見ず、大きな社会問題となった。
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建設省が川の水質を守るために酸性水の中和処理事業に取り組んだ例は、過去にもあった。群馬県の白根山から流れる川は硫黄分を多く含み、草津温泉の湯はpH2.3の強酸性であった。(pH7が中性)。それが吾妻川に流れ込み、下流の人々の暮らしに与える影響は大きかった。そこで群馬県が建設した草津中和工場と昭和40年(1965)に完成した品木ダムとを建設省が引き取り、工場で中和した水に含まれる沈殿物をダムに沈める、という一連の事業が現在も引き続き行われている。ただし「草津の例は、自然界の営みに原因があるから、流域に住む人々の不利益を考えれば河川管理者(建設省)が乗り出さざるを得なかった。ところが松尾鉱山の場合は、産業活動の結果川が汚染されたものであり、その責任は企業にある。また、それをコントロールして来た通産行政にあるはずだ。会社が倒産して、原因者がいなくなってしまったからといって、汚れた川の後始末だけを建設省で引き受けろというのは筋が違う」との主張が、建設省では松尾鉱山問題が始まる時も、終わる時も常に議論の柱となり続けた。

政府、解決に乗り出す

環境庁が調整役となって北上川水質汚濁対策各省連絡会議(通商産業省、建設省、自治省、環境庁、林野庁から構成された。略称5省庁会議)が発足所したのは昭和46年(1971)11月である。将来の維持管理をどこで引き受けるかという宿題を棚上げしたまま建設が進められた新中和処理施設だったが、完成して試運転も始まり、いよいよ稼働しなければならない時期になっても、まだ引き取り手が決まらなかった

5省庁会議によって対策が検討された結果、昭和51年(1976)多量の鉄を溶存する酸性坑廃水を比較的安価なコストで処理可能な「鉄バクテリア酸化・炭酸カルシウム中和方式」が選定され、同方式による大規模中和処理施設を建設することが決定された。

岩手県は通商産業省の補助を受けて同施設を設計・建設し、その運営管理がJOGMEC(独立行政法人・石油天然ガス・金属鉱物資源機構)の前身の一つである金属鉱業事業団に委託された。

同施設は、昭和57年(1982)4月に本格稼働を開始した。以来、JOGMEC がpH2程度の強酸性で鉄分や砒素を多く含む坑廃水を、昼夜・季節を問わず、毎分約18トンの中和処理を行い、殿物を分離・堆積し、上澄水を赤川に放流している。これと並行して、坑内水や浸透水を減少させるための発生源対策工事が、同時に耐震補強工事が、岩手県により実施された。処理原水の水質が改善してきたことにより年間処理費用の削減が進んでいる。

坑廃水の中和処理とは別に、鉱滓等の堆積物の崩壊・流出防止、坑内や堆積物への雨水の浸透・流入を防ぎ、坑内水や浸透水を減少させることを目的として、発生源対策工事が行われている。岩手県では、昭和47年から露天掘り跡地の覆土植生工事を始め、鉱滓等堆積場の整形被覆植生工事、山腹水路工事などを平成14年度(2002)まで行った。一連の事業展開により、北上川は清流を取り戻し「母なる川」としてよみがえった。

汚染された松川(赤川の下流、左)と北上川の合流点(右、昭和49年当時、いずれもJOGMECのHPより)

四十四田ダムでヒ素封じ込め

JR盛岡駅から北へ車で20分足らずのところに四十四田(しじゅうしだ)ダムはある。市街地から近い平坦地のダムという特異な立地条件で昭和43年(1968)完成した。昭和16年(1931)に北上川洪水調節を目指して5つのダムが計画されて以来、石淵ダム、田瀬ダム、湯田ダムに次いで4番目に完成したのが四十四田ダムで、本川の唯一のダムである(5番目は雫石川に造られた御所ダム)。

赤く汚濁した流れと共にブヨブヨした浮遊物が北上川上流を下っていく。この汚染水を封じ込める役割を果たしているのが四十四田ダムである。同ダムの主な目的は治水と発電である。松尾鉱山の酸性水は、放っておけば四十四田ダムにも少なからず影響を与える。そこで同ダムを管理する建設省が問題解決に動いた。

注目すべきは「北上川方式」である。同方式の計算式は「8.4Ax」と呼ばれる。北上川の清流化対策を考える上で非常に大切な式である。鉱床に含まれる成分は、鉱山によって異なる。松尾鉱山から流れ出る酸性水には、水素イオン、硫酸イオン、硫酸第一鉄、ヒ素、アルミなどの重金属が含まれている。pH2前後の松尾鉱山の強酸性水をビーカーに入れ、中和剤(水酸化ナトリウム)を加えていき、pH8.4付近になると、水の中に溶け込んでいたほとんどの重金属類は化学反応を起こして底に沈む。この時使用した中和剤の量が「8.4Ax」の値である。酸性水を無害な水にするために、それだけのアルカリ量が必要かということを知るための指標である。中和処理は24時間、365日一時も止めるわけにはいかない。

炭酸カルシウム(炭酸石灰)の使用量は昭和49年度(1974)で4万7000トン、その経費は年間2億4000万円に上った。中和処理方法では24時間人を張り付けておいても、小さい古い施設では全処理水量の3分の1しか中和できない。それを補うために川へ直接投入している炭酸カルシウムは赤い沈殿物とともにどんどん四十四田ダムに貯まっていく。鉄分は硫酸第2鉄になることによって、より沈殿物に変わりやすくなる。

上流から流入する中和沈殿物を貯めることになるだろうとは予測されていたものの、それは予想を大きく超えた。四十四田ダムで大量の「沈殿物」(ヒ素)が封じ込められた。沈殿物と水質は安定している。
                
「清流化元年」と言われた昭和50年(1975)。その根拠は、その年の水質の基準地点である北上川本川の紫波橋でpH7(中性)を取り戻して以来、水質が安定しているためである。

露天掘跡地の覆土植生工事(左が施工前、右が施工後、いずれも岩手県HP)

次の言葉は重い。
「岩手県民の『母なる川』北上川は、清冽な流れをとりもどしつつあるが、これを守り続けるのが県民自身であることを忘れさせてはならない」(「北上川百十年史」(建設省(当時)東北地方建設局)。日本全国にはかつて鉱山が6000ほどもあった。今ではほぼすべてが休廃止鉱山となっている。水処理施設は全国に80カ所あり、そのうち24カ所が義務者不存在鉱山である。廃坑後の後始末を自治体に強いている(2006年調査)。

参考文献:「北上川を清流に」(建設省岩手工事事務所)、「北上川百十年史」(建設省(当時)東北地方建設局)、JOGMEC資料、岩手県関連資料、「濁る大河」(矢野陽子)。

(了)

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