「アウトサイダーの逆襲!東南アジアからACLを狙う内田昂輔の挑戦記 vol.4」

唐突な質問となるが、※内田(山崎)昂輔というプロサッカープレーヤーのことをご存じだろうか。

彼のプロキャリアは立命館大学卒業の大分トリニータでスタートしたが、2シーズンで契約満了となり、(当時JFL)FC琉球を経て、モンテネグロのFKグルバリで海外挑戦。以降も様々な国を渡り歩き、現在はミャンマーリーグのヤンゴン・ユナイテッドでプレーしている。

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今季はACLプレーオフに挑んだが、タイのチェンライ・ユナイテッドに二回戦で負けて敗退。

「サンフレッチェ広島と本選出場を掛けて戦う」という舞台は訪れなかったが、既に本人は次なる目標を据えて戦っている。

これまでの彼の道のりは決して順風満帆なものではなかったかもしれない。

しかし、常に自分の夢標と真摯に向き合い、そして確実に歩を進める彼の生き様から何かを感じ取って頂けると幸いだ。

インタビュー・文:カレン

写真提供:内田昂輔

※なお、現役中に登録姓名を内田から山崎に変更しているが、今回のインタビュー内での表記は内田としている。

前回までのインタビューはこちらから

vol.1

vol.2

vol.3


カレン(以下、太字――)「自分の代理人もする選手」としての活動も行ったラオス時代ですが、そこからはまた別の国に行きました。その理由は「他の国でプレーしてみたい」という思いがあったからでしょうか?

内田昂輔(以下、省略)そうですね。

在籍したところは、ラオスの中ではすごくお金をかけていて、環境面もしっかりしているクラブだったので不満はなかったんですが「他の国でやってみたい」という思いが強かったので、クラブにちゃんと話をして、次のチームを探すことにしました。

━━また同じ手法でチーム探しを?

その時にはFacebook上で色々なエージェントと繋がっていたので、直接クラブに当たるというよりは、エージェントにコンタクトを取ることが多かったです。

けっこうエージェントが「あるクラブがこのポジションの選手を探している」と情報配信をしているんです。

━━では、「バーレーンリーグ初の日本人選手」となったブダイヤ・クラブへの加入もエージェントと知り合って…という流れだったですね。

まぁ、Facebook上での話なんで、「知り合って」と言っても、そのエージェントに会ったことはなかったんですけどね(笑)

その前にオーストラリアのクラブを紹介してもらっていたんですが、それはサイドバックでの話だったんです。

自分がこれまでやってきた感覚から、次のクラブでもボランチで勝負したいなという思いがあって…。アジアでやるにはボランチ以外では難しいというか、真ん中のポジションのほうが結果やインパクトを残せやすいですからね。

そして、そのオーストラリアの話の直後にバーレーンの話が来たんです。

━━その話が来た時はどうでしたか?

「中東ってどうなん?」っていうのが正直な感想でした(笑)

それまで日本人選手でプレーした人はいなかったんで、知り合いや伝手もありませんし。

でも、「なるべく日本人選手がプレーしたことがないところに行きたい」という気持ちがあったので、「とにかく行ってみよう」と(笑)

行く三日前ぐらいに「サウジアラビアとの国交が断絶する」みたいな話も出たりして、ちょっとやばそうな雰囲気も感じてましたが…。

━━それには「行く勇気」も必要だったのでは?

やっぱり、なんでも行ってみないとわからないですからね。色々と言われてましたが、問題なく入国できましたし、街もキレイでした。

どこに行っても、「街、砂漠、一本道の三点セット」のような作りで、街の周りに何もない景色は面白かったですね(笑)

ちなみに、自分が住んでいた街はこの国では小さいほうで、インド人など出稼ぎの人が多かったですね。現地の人はゆっくりしていて、外国の人が働いているというか。

ちなみに、海辺以外は特に見るべき観光スポットはありません(笑)

でも、コンパクトな国なので、首都のマナーマへ移動するにも車を使えばそこまで大変ではなかったですね。ただ、自分は車を持っていなかったので、近くのスタバまで歩いて、片道1時間コースでした。真っすぐの一本道をただ走るので車なら早いんですけど(笑)

━━最終的には「バーレーン初の日本人選手になること」を決断したと。

はい。まだ「誰もやったことないリーグ」という設定がかなり魅力的でした(笑)

━━当時、バーレーンのサッカーについてはどのようなイメージがありました?特定のクラブにスタープレーヤーが集まっているという印象がありますが。

正直、僕は全くイメージがなかったです…。

「時々、日本代表が試合するなー」ぐらいで、多くの方と変わらない知識レベルでした(笑)

バーレーン代表で10番を着けていたサルミーンらが所属する、それこそスター揃いのチームと初めての練習試合で対戦したんですが、「誰がサルミーン?」という感じでしたから(笑)

━━所属したクラブは二部リーグでしたが、一部と二部の力の差は感じましたか?

ほとんど差は感じなかったですね。

バーレーンにはリーグ戦以外にも一部と二部のクラブが参加するカップ戦があるんですが、一つのクラブが飛び抜けているだけで、あとは大きな差はありませんでした。けっこう接戦も多かったですしね。

━━外国籍選手などはどうでしたか?

ブラジル人とかもけっこういたんですが…そもそも、誰が外国籍選手なのか、見た目では全然判断ができなかったんですよね(笑)

アジア枠も中東周辺の選手に使うことがほとんどなので、誰がアジア枠かもわからないという状況でした(笑)

━━言語のストレスなどはなかったのですか?

チームの共通語はアラビア語だったんですが、それを英語に訳してくれるチームメイトがいたので苦になりませんでしたね。

アラビア語もそれなりに覚えたほうが良かったんですけど、字も読めない上に発音がすごく難しいんですよ。

僕が「1、2、3」と数字を言ってみただけでチームメイトに大爆笑されてましたから(笑)

━━そのバーレーンでは半年間プレーしました。

元々、後期シーズンのみの契約だったんです。

そこで結果を残して、良い声が掛かればもう少しバーレーンでプレーを続ける可能性はあったんですが。でも、起用されたポジションがトップ下だったり、シャドーだったりということもあって、なかなか持ち味を出せなかったんです。もちろん、自分の力不足ではありましたが…。

テストマッチではボランチだったんですけどね。チームがトップ下の選手の獲得に失敗した上に、もう一人ボランチを獲得するという流れになり、「この二人のボランチの中でどっちがいけるだろう」と天秤に掛けられ、僕のほうがちょこまかと動けた分、トップ下に選ばれた感じです(笑)

ただ、「やっぱり、自分のポジションで勝負しなきゃダメだな」というのが反省点として残りました。チーム事情によって他のポジションをやらなきゃいけないことは当然あるんですが、自分のプレースタイルは守らなきゃいけないですね。どこでも活躍できることがベストなんですけど。

━━バーレーンで他のチームを探すということはなかったんでしょうか?

そこまではなかったですね。「あればいいかな」という感覚でした。ちょうどその頃、嫁が妊娠していて、バーレーンの生活に苦しさを感じていた部分もあったので。

当時、クラブのオフィスで寝泊まりしていたんですが、向かいの部屋には3人のアフリカ人がいて、別のところには4、5人のバングラデシュ人が一部屋に住んでいるようなところですからね(笑)

自分は運が良くて専用の部屋を与えてもらいましたが、給料も高待遇と言えるものではなく、環境としては決して良いものではありませんでした。

なので、嫁からも「アジアならば中東ではなく東南アジアがいい」と言われていて、「じゃあ、そっち方面で探そうかなぁ」と動きました。

━━それで、ラオスのランサーン・ユナイテッドに復帰したわけですね。

前にもお話したようにオーナーの方からすごく良くしてもらっていたことが大きかったですね。

前回にチームを離れる時も「さらに良い条件で考えるからチームに残って欲しい」とも言ってもらっていて、バーレーンでプレーしている時も「そろそろこっちに戻ってこないか」と何度も連絡がありました(笑)

そこまで言ってくれるオーナーなんてなかなかいないですし、ブラジルで悩んでいた僕を拾ってくれたチームでしたから、復帰を決めました。

まぁ、その後にチームがなくなったんですけど(笑)

━━チーム自体がですか!?

そうなんですよ…。

僕が復帰した後はすごくチームの調子が良くて、国内リーグを優勝。タイのブリーラム・ユナイテッドに負けたものの、メコンカップでも決勝まで進んだんです。

その大会終了後のオフには帰国して、「子供も生まれたことだし、このタイミングしかないな」と結婚式を挙げたんですが、その翌日に事件が突然起こりました。

Facebookで「チームが解散」という話を聞いたんです(笑)

「次のシーズンからは家族三人でラオスに戻って…」と式の中でも発表していたのに(笑)

━━それは急転直下の出来事でしたね。

真相はよくわからないままですが、財政的な問題よりもオーナーの意向かなと思います。

次のシーズンにはAFCカップの出場も決まっていて、グループリーグの日程も発表されていたのですが、そこで「スタジアム問題」が発生したんです。

オーナーはその大会に自分のスタジアムで参加したかったんですが、「基準を満たしていない」とのことで断られたんです。それがけっこう気になっている感じがありました。協会のトップがオーナーのライバルクラブの人間だったので、そことの軋轢もあったんだと思いますが…。

ちなみに、結婚式の前日ぐらいにオーナーがチームのグループページみたいなところに新シーズンの予定のようなものを発表していて、そこには「まだ協会と話し合っている点がある」という怪しい部分もあったんですけどね。

「これはやばい、あのオーナーのことだからリーグ戦は出ないとか言い出すかも…」という危機感は多少ありました(笑)

━━でも、それを上回る展開が待っていた(笑)

さすがに「チームが解散」までは予想できませんでしたね(笑)

それを結婚式のタイミングでFacebookから知った人間は、サッカーの歴史を見ても、僕だけなんじゃないでしょうか(笑)

最終的にそのトラブルが収まるまでもけっこう時間が掛かりました。まだ僕はクラブとの契約が残っていたので、ラオスに戻ってからは「残りの契約をどうするのか」という話を進めました。メコンカップの時に「勝てばボーナス」という状態で、最終的に決勝まで進んだんですが、それも全く払われずで…。

で、次の移籍先も探していたんですが、そこで実際に体まで動いてしまうと、残りのお金が支払われないなと思ったので、約二か月はラオスで全く動けない状態が続きました。

━━何も約束されない中、生活費の面などかなり不安な時期だったのでは?

いつ契約解除になるのか、いつ支払われるのかが全くわかりませんでしたからね。

でも、いつでもトライアルを受けにいけるように体は準備しなきゃいけないという感じで。当たり前ですが、チーム練習はなかったので、一人でグラウンドに行って壁に向かってボールを蹴ったり、走り込んだりして過ごしていました。

━━その間にどんどん移籍市場も閉まってきますよね…。

そうなんです。僕以外も皆大変そうにしていました。特に外国人選手は移籍期間についてシビアですから。

ただ、僕は幸運なことに話が全て片付いた直後、ラオスで知り合ったブラジル人を通じて、「インドネシアのクラブがアジア人を探している」との話を聞けたんです。それで、すぐにインドネシアに向かいました。ラオスでの話が決着した二日後でしたね。

━━激動の二か月でしたね。

今、振り返ってみても、その二か月は本当にきつかったと思います。

もちろん、結果的にインドネシアでプレーする機会を得られたので、ラッキーな面もありました。あのマイケル・エッシェンらスタープレーヤー達とも同じピッチに立てましたからね。

━━インドネシアではぺルセラ・ラモンガンに加入しましたが、この国のサッカーはどうでしたか?

大きなスタジアムも多かったですし、あの観客の熱狂ぶりも予想以上でしたね。

僕のクラブのスタジアムはそこまで大きくはありませんでしたが、毎試合のように一万五千人がフルに入っていましたから。

Jリーグだと熱狂的なサポーターはゴール裏で、他の席は静かに見ている人も多いですが、インドネシアは全員が熱狂的なんですよ。

あの雰囲気は独特だと思います。練習試合なんかにも一万人ぐらいが見に来て、試合が終わった途端になだれ込んできます(笑)

それを知っているチームメイトは一目散に引き上げるんですが、僕は全然聞かされてなかったので、「ユニフォームをくれ!」とせがんでくる集団にすぐに囲まれました(笑)

━━サッカーのスタイルはどうでしたか?

本番になると火がついて、ハードに戦う選手が多かったですね。それが好まれる文化なのかなと。

僕自身はその雰囲気が好きでしたし、サポーターからもこのプレースタイルは好かれていたのかなと思います。

━━東南アジアでプレーした選手は意外とそのギャップに驚くようですね。「ここまで荒いリーグだと思わなかった」という。

ですね。本当に危ないプレーも多いんです。毎年のようにスタジアムにも救急車が入ってきます。

━━事故で言うと、サポーターの事故も多い国だと聞きます。

試合後の帰り道にサポーターがバイク事故なども多かったですね。

大型トラックに何十人も乗ってスタジアムに来たりするんですよ。その荷台から落ちての事故なんかもInstagramでしょっちゅう目にしました。

サッカー絡みでここまで死亡事故が発生する国はないんじゃないでしょうか。

━━話を戻して、先ほどのエッシェンの名前が出たように、当時のインドネシアリーグは、カールトン・コール、ディディエ・ゾコラ、モハメド・シソコ、ピーター・オデムウィンギーなど「元スター」が多く集まってきた時期でした。彼らとのプレーはどうでしたか?

有名な選手もちらほらいたんですが、意外と苦戦している選手が多かったですね。

エッシェンなんかもボールの出しどころに困って、周りに「動け!」と強く指示したり、周囲と合わせることに苦戦していた印象でした。

自分のクラブにも、元インテルユースでポルトにも所属した選手が在籍していましたが、彼は試合に出られないことすらありましたよ(笑)


第五弾に続く。

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