福島第二原発の危機対応から学べるもの 第1回 ハーバードで取り上げられたリーダーシップ

福島第一原子力発電所1~4号機 画像提供:東京電力ホールディングス株式会社

2011年3月11日の東日本大震災で、福島第一原子力発電所と同様に地震・津波の被害を受けながらも、炉心損傷に至ることなく全号機の冷温停止を達成した福島第二原子力発電所。現場指揮にあたったのが当時所長だった増田尚宏氏だ(現日本原燃株式会社 社長)。危機的な状況の中でも落ち着いて的確に現場をまとめあげたリーダーシップは海外でも評価され、ハーバード・ビジネス・スクールの授業でも取り上げられているという。その増田氏が当時を振り返った。

最初に、福島第一・第二原子力発電所が、地震と津波によって大きな事故を起こし、地元の方々をはじめ、多くの方に多大なご迷惑をおかけしてしまいましたことに改めて心からお詫び申しあげます。本当に申しわけございませんでした。

私は当時、福島第二原子力発電所の所長をしておりまして、東日本大震災後、福島第二の対応が落ち着いた後は、事故を起こしてしまった福島第一プラントの収束と廃炉作業にあたっておりました。2018年4月から東京電力(東京電力ホールディングス株式会社)の副社長としてオリンピックの統括とか、オリンピックに向けた危機管理を担当し、現在は、日本原燃株式会社で特別顧問という立場になっています(2018年11月講演時)。

福島第一・第二原子力発電所は、福島県の浜通りという海辺の地域に、12キロ程度、距離が離れて建てられていて、そこから東京に電気を送っていました。東日本大震災では、福島第一、第二とも、地震ではしっかり運転が止まったわけですが、残念ながら津波によって制御機能を失ってしまい、その後の事故を引き起こしてしまいました。第二原子力発電所は、何とか冷温停止にもっていくことができ事故を免れましたが、皆さんに避難していただく状況になったという意味では、本当にご迷惑をおかけしたと反省しております。

私たちの福島第二での危機を乗り越える活動というのは、ハーバード・ビジネス・スクールでも取り上げていただいています。私は電話でのインタビューを受けただけですが、アメリカから何人もの方々が話を聞きに来たので、ケーススタディーのビデオをつくりました。そのビデオの内容を紹介させていただきながら、当時の状況を説明させていただきます。

 

絶対現場を離れない

当時、福島第二原子力発電所長で、現場指揮にあたった増田尚宏氏(現日本原燃株式会社社長

大地震の後に津波が来たときも、もう駄目だと思ったことは一度もありません。目の前に降りかかってくる課題を順番に片付けていったというのが正直な感想です。第二が事故を起こさなかったのは奇跡といわれることもありますが、奇跡というよりも、やるべきことをきちんとやったから結果が出たというふうに思っています。

第二では、4つある原子炉のうち3つが津波によって冷却システムを喪失し、原子炉の除熱ができないという緊急事態に陥りました。この状況下で最初に私が決心したことは、私が動揺すると、ほかの皆に悪影響が出るので、普段通りにしていようということです。それと、この席からは絶対離れないということを決めました。所員が何かを聞きたいときに、私がどこにいるのか分からないというのは最低のことだと思います。そんなことに時間を割いていてはいけません。そんな状況に対して、原子炉をコントロールする中央制御室の大半が停電していなかったことは、その後の決断にとても役立ちました。

中央制御室というのは、原子力発電所の各号機をコントロールしている場所です。そこの電気がついていて、普通に通話できて、しかもメーターが見えたのが福島第二です。福島第一はそこも含めて真っ暗になってしまって、しかもメーターも見えなくなってしまったんですね。今のまま、何もしないでいると、いつ何が起こるのかが、しっかり推測ができたということが、第一との大きな違いだったと思います。

原子力事故を防ぐ3原則は、「止める、冷やす、閉じ込める」です。福島第二では、最初に止めることには成功しましたが、冷やすための除熱機能を喪失しました。その冷却機能を復旧させるには、現場に行って損傷具合を確認する必要がありますが、安全確保を最優先にして、皆が危険にさらされるようなことは少しでも避けたいと思いました。現場に行ってみないことには対応が進まないわけですから、何とか早く行ってもらいたいわけですが、(余震が続いていたり、がれきが散乱したりしている)危ない中、皆を行かせるわけにはいかないと思いました。

福島第二原子力発電所 津波到達後の中央制御室 画像提供:東京電力ホールディングス株式会社

情報を可視化して共有

 最初にやったことは、情報を書き出すということです。「何時何分という時間ももう覚えていませんが、14時46分の地震から、どのくらいの地震(余震)がどのくらいの時間的な感覚で来たというのをホワイトボードに線を引いていきました。それほど厳密なものではありませんが、地震の大きさを縦線、時間的な間隔を横線にとり、ちょっとした絵のようなものですが、私が今何を考えているのかというのを、皆に分かるようにしたいと考えました。地震がどう続いているか、あるいは津波警報が出ているかというのは、頭では理解していても、感覚的にはまだ持てていないと思ったので、皆にまずは見てもらって納得してもらいたかったということが理由です。

 普段とても優秀な人でも、頭が真っ白になってしまい普段通り振舞えない人が多かったので、指示を出す際はとにかく具体的に指示をして、場合によっては、「お前、俺が今何を言ったか分かったか?言ってみろ」と復唱させることも意図的にやりながら仕事をしてもらうように心がけました。皆からの質問には即答。間違ったことが分かったらすぐに訂正もしました。

そして、地震発生から8時間後の夜10時。余震が落ち着いてきた瞬間を見計らって何人かに現場に出て調査するように指示をしました。指示というよりお願いです。

原子炉を除熱するためのポンプがある海水熱交換機の建屋は、津波によってほぼ全ての電源盤が機能を喪失していることが分かりました。電力を喪失していない施設から、何とかして海水熱交換機建屋へと電気を送らなくてはなりませんでした。通常ならこれだけで1カ月はかかる作業です。

一方タイムリミットは迫っていたため、電力が喪失していない施設から手作業でケーブルをつなぐことを決めました。後日計算したところ、総延長はおよそ9キロに及ぶことが分かりました。ケーブル引いてもらわないと、もう先がなかったし、ケーブルを引くことはできると思ったんですね。確かに人数はかかりますけど、人数さえいれば、何とかしてくれるだろうという思いはありました。

ケーブルは1メートルにつき重さ5キロです。5メートル間隔で運びましたが、1人に対して25キロもの重さがかかりました。がれきが散乱する中を歩く過酷な作業でした。タイムリミットまであと2時間を切った3月14日の1時24分、ケーブルの接続に成功し、直ちに1号機の冷却システムが復旧しました。

あの時は本当にほっとしました。ただ、1台だけですから、またそれが壊れてしまったら、すぐもとに戻ってしまうので、ドキドキし続けてはいましたが、全員プロ意識があったので、頑張ってくれたのだと思います。

リーダーの資質について問われることがありますが、私は、優しさと厳しさを両方合わせ持っている人で、できたときは褒め、優しく接し、失敗したときには、それはもちろん程度問題ですけど、厳しくするという、そのバランスがすごく大事だと考えています。どうやって人を気持ちよく、明日も頑張ろうというふうに思ってもらえるかということが、リーダーに一番求められることだと思っています。

一方で、リーダーというのは、単なる役割だと思っています。皆がそれなりの役割分担をしながらやっている中の1つにリーダーがあって、全体をその人がまとめているわけです。各人が無駄な動きをしないで済むようにするためには、そのリーダーが調整しないといけません。リーダー自身が、各人のやっているほどの能率を持っているわけではありませんので、皆をコーディネートしながら、皆の力を無駄にしないで、納得して仕事ができる方法をちゃんと決めて、皆の安全を守りながらやっていくことが重要だと私は考えています。

(続く)

(2018年11月8日に行われた一般社団法人レジリエンス協会の定例会 講演より)

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