芸術家と酔っ払いが王様だった1960〜80年代 ソーホー⑧

篠原一家のロフトがあったのはハワードストリート25番地の3階。今は大家(故人)の息子の事務所がある

ロフトの誕生

 ジェーン・ジェイコブらの住民運動が高速道路の建設を中止に追い込んだその頃、空き家と化したキャストアイアンの工場や倉庫に目をつけたのは芸術家たちだった。家賃は激安で天井が高く、日当たり抜群のスペースは、巨大な現代絵画や彫刻を作るのには最適なアトリエになる。手先が器用な彼らにとって内装工事など朝飯前。広大な制作現場を壁や中二階で仕切って生活空間を作るのが定石だった。いわゆる「ロフト」スタイルの誕生である。

 ジャスパー・ジョーンズ、ドナルド・ジャッドら現代美術家をはじめ、一時2000人以上の芸術家がこのエリアで活動。レオ・キャステリ、OKハリスなど地域の画廊も名を上げ、「ソーホー」の呼び名が定着すると同時に、「芸術の街」の同義語になった。

ソーホー時代の篠原夫妻。情熱あふれる制作活動と厳しい生活が隣り合わせの時代だった

日本人芸術家の壮絶ライフ

 1970〜80年代、ソーホーを活動拠点とした日本人芸術家が、篠原有司男さん(ギュウちゃん)と乃り子さん夫妻。アカデミー賞候補映画「キューティー&ボクサー」に登場したリアルなソーホー暮らし。今でも語り出すと止まらない。

 「(最初の)ロフトの家賃はサブレットで70ドルだったね。月だよ、もちろん。広さは1500sf。生活のために日本からの貧乏画学生を居候に置いてね。1人1日1ドル取っていた」。数回転居の後、ハワードストリート25番地の3階に落ち着いた際には、家賃は月260ドル。少しはマシかと思いきや、乃り子さん曰く。「私がギュウちゃんと一緒になった73年には、イラストレーターが1人、そのビルの荷物用エレベーターの中に住んでいたわよ」。

 裸電球一つの倉庫で床は穴だらけ、ネズミが走り回る劣悪な環境。居住禁止の商業ビルだからガスがなく、台所は全部電化。なぜかメーターがなく請求書も来なかった。「ある日、電気会社が一帯の電気の検針を始めたの。うちなんか一月300ドルぐらい使っていて、それを過去にさかのぼって請求すると言われ大慌て。数千ドル分を分割で払ったわ」と乃り子さん。

 

1986年にソーホーを脱出。以後、ブルックリンのロフトで活動する篠原一家。息子アレックスもアーティストだ

当時のソーホーは、街灯も少なく、酒場もわずか3軒。むしろ、酔っ払いの巣窟で悪名高かったバワリーから、泥酔した路上生活者が流れて来てロフトの入り口でごろ寝していたと言う。

 「眼鏡をかけたインテリ風の『教授』とか、小道具の松葉杖と血だらけの包帯姿で同情を引く演技派の『王様』とか個性的な酔っ払いが多かったなあ」

 お金なんか関係ない。生活費を削っても絵を描きたい。思い切り自由だったソーホーで極限までアートを追求した篠原夫妻。廃屋の街からアートの力で蘇生したのに、今や全米一不動産が高いといわれるソーホーには、未練も羨望(せんぼう)も全くない。(中村英雄)

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