都市計画家・石川栄耀の孤独な戦い 戦災廃墟東京の復興へ、川を「殺す」

石川栄耀(石川家提供)

東京都の課長

昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争は昭和天皇の玉音放送によって終わりを告げた。敗戦国の民衆を襲ったのは極度の飢えと虚脱感それにささやかな解放感であった。戦災による犠牲者は約185万人、領土は戦前の40%を失った。日本は北海道・本州・四国・九州の4島に押し込められ「三等国」に転落した。8月30日、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が愛機「バターン号」で厚木飛行場に到着した。日本が初めて体験する「無血占領」と「間接統治」の始まりであった。

無惨な焼け野原になった東京の復興計画に取り組んだ中心人物が東京都計画局都市計画課課長・石川栄耀(えいよう、1893~1955)である。<日本都市計画のパイオニア>石川による首都復興計画は都市計画の理想を表現したもので、新聞や映画などメディアも活用し、都民に復興計画の理解を求めた(石川については本連載37回でも紹介している)。

復興計画案の準備は戦時中から秘密裏になされており、敗戦後に概要が公表されるのも驚くほど早かった。「社会に対する愛情、これを都市計画という」。石川のことばである。だが石川の前には多くの壁が立ちはだかった。

敗戦直後の復興計画

東京都は、敗戦後2週間もたたない昭和20年8月、復興計画の概要「帝都再建方策」(石川原案作成)を発表した。それは<理想的な復興計画>といえる。
計画の主要な目標として、

一、 都内の住宅は敷地75坪(約248)に一戸建設し、その周囲に自給農園をつくる
二、 道路は幅50~100mのものを数十本つくる。
三、 大緑地を数か所に造る。
四、 学園街を緑地帯の周辺に35カ所造る。
五、 消費だけの都市から生産都市に変える。などの提案を行った。

「最初から国家百年の大計のもとに根本的な計画を樹てるべきだ」。石川の方針である。注目すべき点は、将来の東京の人口を300万人に想定したことである。だが現実は、都の人口はその後も急増を続け、人口300万という目標は根本から崩れていく。

石川は、昭和20年11月に創設された戦災復興院(以下、復興院)総裁に小林一三(いちぞう、電鉄・電力界の実力者で阪急電鉄創始者)が就任したことを歓迎していた。石川は、「帝都改造計画要綱」の作成を進めている戦時中の19年(1944)11月に既に小林の前でそれを報告していた。「そこへ復興院が出来、何と小林一三さんが総裁というヒット人事であった。これは愉快な事になったぞとよろこんでいるある日、私は呼び出された。復興計画が出来ているなら、皆に説明してほしいというのである」(石川「私の都市計画史」)。

「帝都再建方針」の発表から4カ月しか経っていない昭和21年(1946)1月「帝都復興計画要綱案」が発表された。これは小林復興院総裁、財界、知識人からの意見も聴取して石川によって作成された。背景にはGHQの「早急に復興計画を提示せよ」との指令もあった。基本方針は

○主要目標
(1)太陽の都市:木造家屋の密集した、満足な日照りもない町でなく、公共住宅と広い芝生のある衛生的な住宅街にしなければならない。
(2) 友愛の都市:お屋敷町の多い町をつくるのではなく、都民一人一人が住み良い都市としなければならない。
(3)慰楽の都市:個人が小さな庭をもつことではなく、広い公共の広場や庭園を造っていくことだ。
(4) 無交通の都市
(5)食糧自給度の高い都市
(6)文化の都市、都民の生活向上の為の健全な町づくり
(7)生産の都市
(8)不燃の都市
○基本方針と計画
(1)計画人口 区部において350万人(1946年「都市地転入抑制緊急措置令」、1949年解除、1947年500万人を超える)
(2)不燃都市の建設、防災地域の指定3360ヘクタール(1946年8月)
(3)公園緑地の施設の整備、大公園 4カ所約62ヘクタール、中公園 20カ所約75ヘクタール、緑地34カ所約3200ヘクタール(1946年4月)
(4)交通施設整備、街路計画に重点が置かれた。(1946年3~4月)。放射状34路線、環状線9路線、補助124路線。
(5)土地区画整理事業の促進、土地区画整理事業地2万130ヘクタール(1946年4月)
(6)都市の過大化防止

広報映画「10年後の東京」(石川制作)

GHQ意識したPR動画

昭和21年3月、石川は、東京の人口を300万人に抑えるため、周辺の衛星都市に人口を吸収し、第一次計画としては、半径40km圏内にある諸都市に諸施設を分散収容することとし、第二次計画では、それを半径100km圏内まで拡大する方針を固めた。これらの都市に合計400万人を収容することによって東京の膨張を防げると考えた。

同年に2冊の図書を刊行した。「新首都建設の構想」(戦災復興本部)、「都市復興の原理と実際」(光文堂)である。

昭和22年(1947)夏、石川は映画「二十年後の東京」を企画立案する。多才な彼の一面を示す作品は、16mmのフィルムで上演時間は30分である。(財)日本観光映画社制作・企画東京都都市計画課となっている。ビデオは「イギリスの大臣が嘆いて、紙の都市が欲しいと言った」から始まる。焼け野原の航空撮影に続いて「都市計画や復興の良い機会」、「日本には友愛の精神がない」「民主的でもない」、「東京では公有地16%、私有地84%」などのテーマが映像をまじえて展開される。最後に「一にも二にも土地が欲しい・・・」と訴えて映像は終わる。「民主主義樹立のために都市計画を理解して欲しい」との再三の訴えは検閲をするGHQを意識したものであろう。
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「GHQ民政局から、都心に残されている大量のガラ(がれきの俗称。残骸、残土など)をいち早く排除して都市計画を提示せよ、と矢の督促なのだ。そこで掘割や河川をガラの捨て場にあて埋め立てれば、ガラの排除と用地取得の一挙両得になる。GHQにNOは言えない。直ちに取りかかって欲しい」

東京都庁知事室で安井誠一郎知事は、目の前に立つ都市計画課長・石川栄耀に眉を吊り上げて命じた。石川は、学生時代から下町を散策してわずかに残された江戸情緒に親しんできた。その情緒を伝えるものが都心を流れる掘割や河川であった。都会の水辺の必要性を誰よりも訴えていたのが他ならぬ都市計画家石川であった。都会の水辺や緑の空間は是非守りたいと考えて来た。その石川に「川を殺せ」との厳命である。

「掘割や河川を埋め立ててしまいますと都会の風情がなくなります。水辺公園(リバー・サイド・パーク)が生まれません。防災上問題を残します。しかもガラの排除には国からの補助金も出ないと聞いています」石川は賛成しかねるとの考えを強調した。

「君、そんな悠長なことを言っている場合じゃないんだ。GHQには逆らえないことくらい君も知っているだろう。すぐ対応してくれたまえ。またGHQは新たな都市計画を都民に積極的にPRしろとも命じている」。

不本意な河川埋め立て

敗戦直後の東京には、空襲のために破壊された建物の残骸が至る所に山のように広がっていた。それを処理するのに、内務省(国交省前身)都市計画東京地方委員会は「不用河川埋立事業計画」との都市計画に逆行する事業を決定した。これはトラック16万台分と言われた焼跡の残骸を安井知事から「事業費なしで処理せよ」と命じられた都市計画課長石川が、上司の厳命に反対しきれず「例外措置」として対処したものだった。膨大な量のガラを川に投棄して埋立て、出来上がった土地を売却し事業経費に充てるという手法であった。

残骸の山の中から、空襲の犠牲者の焼け焦げた遺体が見つかることもまれではなかった。捨て場のないガラは、目抜き通り沿いにうず高く積み上げら悪臭を放っていて、GHQから政府や東京都に対して早急に排除しろとの厳命が繰り返し下っていた。結局、昭和22~25年(1950)にかけての埋め立てで、東京駅前の外堀、三十間堀川(さんじっけんほりかわ)、東堀留(ひがしほりどめ)川、竜閑(りゅうかん)川、新川、六間堀川、浜町川、平久(ひらく)川支川など、多くの都心部の水面が埋立てられた。石川は特に埋め立てに逡巡したのが三十間堀川であった。同川は、東京都中央区に存在した河川である。 川幅が約30間(約55m)あったことから三十間堀と呼ばれ江戸っ子に親しまれてきた。石川は追想する。

「区画整理の一部にガラの取り片付けがある。この仕事は初めから不幸な取扱いを受けた。これほど都市の景観をミジメにするものはなく、世間も又、そのように嫌がっていた。そして、いつしかそれが我々の責任であるが如く扱われる様になった。それにもかかわらず、これに対しては国庫補助は一文もない。従って都の予算にも出ない。仕方がないから、これで不用水路を埋め立ててその埋立地を売り立て、まかなおうと言う事になった。その際最も有名になったのが中央区にあった三十間堀川である。三十間堀川の埋め立てが出来た頃GHQがこれを見たいという。そこで案内したら非常にほめた。ほめている中に、埋立地の中央にある細い道を見つけた。『あれは何だ』と言うから『道路だ』と答えたら急に眼を丸くして『何だ、この埋立地に家を建てるつもりか』と言う。『良からぬことをするものだ』と逆にけなされた」(石川栄耀『私の都市計画史』)。
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三十間堀川は戦後の残土処理のため昭和23年(1948)から埋立が始まり27年(1952)には埋立が完了し、水路としての三十間堀川は完全に消滅した。水辺の埋め立ては、最終的に7万坪(23万1420m2)の造成地を新たに生み出した事業であった。

石川は「国土開発」に「復興計画と土地問題」を投稿している。

「復興計画は土地問題、建築問題及び建築物の運営問題の3段階になっている。その中、最も基礎的なものは土地である。特に日本の様に余りにも掛け離れて後進的な都市を有する国の復興に於いては後進性を取り返す為に土地問題が最重要になる。
道路にせよ緑地にせよ宅地に太陽の光線を入れる為の構想にせよ土地問題にならぬはない。人間にたとえるなら土地は身体、建築は衣装、動作が運営という事になる。(中略)。復興は土地から。土地は地主の良心から。結局復興は地主の良心に待つあるのみという事に誤りはない。国家の政策も社会の関心もここに集中さるべきである」(原文のママ)。

参考文献:拙書「石川栄耀」、都市計画学会「都市計画―特集石川栄耀生誕百年記念号」、鈴木博之「都市へ」など。

(つづく)

 

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