選挙人投票率は前代未聞の100%、ジョージ・ワシントン初代大統領とローワーマンハッタン ローワーマンハッタン②

ジョージ・ワシントンとローワーマンハッタンの縁

フローンセス・タバーンは一時期存続の危機に見舞われたが、フレデリック・S・トールマッジ(独立戦争中にワシントンの命でスパイ網を組織したベンジャミン・トールマッジの孫)の寄付により、取り壊しを免れた。

7月4日の独立記念日。ブルックリンブリッジ越しにローワーマンハッタンの摩天楼をバックに上がる花火は、感慨深い光景だ。このエリアで花火が上がるのには実は大きな意味がある。

 「独立記念日」と聞くと、アメリカが英国の植民地支配から解放されて、その日からバラ色の国作りが始まったような印象を持ってしまうが、さにあらず。自由と新国家樹立のための血で血を洗う戦い「独立戦争」は、1776年7月4日の後7年間にわたって続いた。アメリカ軍(当時は「大陸軍」)と英国軍の死者数は5万2000人。大陸軍の総指揮官が有名なジョージ・ワシントンだ。

そもそもは市民軍のリーダーだったワシントンはいくつかの戦争経験で類希な指揮力と愛国心を買われ、75年「大陸軍」の総司令官に任命される。ワシントンの大陸軍は76年3月ボストンの包囲戦で英国軍を敗退させた勢いで、次の攻防拠点と目されたニューヨークへ入市。ローワーマンハッタンに作戦本部を構えて独立宣言後初の対英戦に臨んだはずが、ここは英国軍ハウ将軍の方が一枚上手。ロングアイランドから巧みに上陸され、大陸軍はブルックリンハイツに追い詰められる。夜霧に乗じて這々(ほうほう)の体でニュージャージーに逃げ延びたワシントン。

1719年建立のフローンセス・タバーンは、83年にジョージ・ワシントンが士官たちに別れのスピーチをしたことで知られる。1階がレストラン、2階から上がミュージアムになっている。 www.frauncestavern.com www.frauncestavernmuseum.org

 ワシントンの軍はニュージャージーでは若干挽回したものの、南へじわじわと追いやられ、ニューヨーク市の奪還はままならない。やがて、戦争はフランスを巻き込む長期戦となり、83年にようやく終結。

 同年12月4日ワシントンは、英国軍を駆逐した後の因縁のニューヨークで、大陸軍の腹心の兵に別れを告げる。その別れの場フローンセス・タバーンが、今なおローワーマンハッタンのパール・ストリート54番地で営業している。意外に素朴な内装で、当時ワシントンも酌み交わしたと思われる生ビールが今も新鮮でうまい。2階が博物館になっていてゆかりの品などが展示されている。

終戦から6年後、ワシントンは再びニューヨークに返り咲く。戦争中最大の功労と指揮統率力ゆえに、史上初の米大統領選で初代大統領に選出されたのだ。選挙人投票率は前代未聞の100%だった。当時はまだニューヨークが首都。89年4月30日に、就任宣誓式が行われたフェデラルホールは、やはりローワーマンハッタンにある。前述のフローンセス・タバーンから500メートルも離れていない。同ホールの入り口では、今でもワシントンの立派な銅像が、はす向かいの証券取引所を見据えている。

アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが大統領就任演説を行ったのがこのフェデラルホール。現在の建物は1842年に建てられたもの。

アメリカ独立戦争とフリーダムタワーの皮肉

 ワシントンは人望厚く自由独立への不屈の精神と驚くべき指導力の持ち主だったが、一方で独立戦争の行軍中は、アメリカ先住民に対して徹底的な絶滅方針を取っていた。「アメリカンインディアンと狼は同様の猛獣」など敵意に満ちた言葉も残している。ワシントンの軍隊は、インディアンの村々を焼き討ちにし、軍服や軍靴を作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだそうだ。知られざる意外な残虐性。

 現在、ローワーマンハッタンの中央にそびえ立つフリーダムタワー。電波塔も合わせた高さは541メートル。世界第4位。それだけ聞いても「ふ〜ん」だが、メートルをフィートに換算してみるがいい。1776という数字が現れる。建国の礎となった独立宣言へのアメリカ人の思いは強い。だが、美談の後に訪れる独立戦争の真実はガラス張りのタワーや7月4日の花火ほど輝かしくはない。ちなみに、超高層ビルの建築作業員の多くが、生まれつき高所恐怖症がないといわれるモホーク族出身の労働者であることを最後に付け加えておきたい。
(中村英雄)

1 Broadway (旧ケネディハウス)

ジョージ・ワシントンがローワーマンハッタンで好んで作戦本部に使った場所がブロードウェイ1番地にある。もともとは18世紀後半にアーチボルト・ケネディ船長のために建てられた邸宅で、ケネディハウスとして知られていた。海を望む立地の良さから、独立戦争中は度々ワシントンと彼の腹心の将校ヘンリー・リー(南北戦争中の英雄ロバート・E・リーの父)が英国軍を迎え撃つための作戦本部として選んだ。

戦後は改築されてワシントンホテルとして営業していたが、1882年に取り壊され、10階建てのビルが建てられる。

84年にエドワード・H・ケンドールにより商業用ビルとして改築され、1920年に海運会社の所有物となってからは、海をテーマにした内装に変わっていった。現在シティバンクがテナントとして入っている1階のロビーでその名残を見ることができる。

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