口外禁止の「行所」などコース解明 八菅山の修行調査

 明治初めまで修験道の寺院だった八菅山(はすげさん)(愛川町)の修行コースが、江戸時代後期には山中を順に泊まり歩く「縦走方式」ではなく、1カ所に連泊して周辺の山を日帰りする「一部定着方式」に変化していたと、秦野市出身で研究者の城川隆生さん(61)が古文書の調査で解明した。従来の説を覆す内容で、山中の宿泊地である「宿(しゅく)」の大半が壊れていたためとみられる。昨秋、日本山岳修験学会の論文集に掲載した。

 修験道は仏教に神道が交じった山岳宗教。城川さんによると、県内では大山、日向(ともに伊勢原市)と、八菅山にそれぞれ修験集団があった。

 これらは天台宗系の修験道で、本山は京都市の聖護院。中でも八菅山は、皇族の聖護院門跡と直接やりとりできる「直末(じきまつ)」という高い格付けだったという。

 元県立高校教諭の城川さんは研究のため2年間、聖護院の山伏修行を実践。その縁から聖護院の古文書を調査し、八菅山光勝寺(現在は廃寺)から提出された報告書に、修行箇所である30カ所の「行所」の方角と距離が書かれていることを初めて発見した。

 地元では口外することが禁じられており、行所の位置に関する情報が載った古文書は見つかっていなかったという。

 また、7カ所の「宿」のうち、八菅山内と現在の清川村煤ケ谷の谷太郎川支流・不動沢だけが宿泊可能で「ほかは壊れている」との記述もあった。城川さんは位置情報を除き、ほぼ同じ内容が江戸後期の1826(文政9)年に、八菅山から幕府に提出された「相州八菅山書上(かきあげ)」にもあるのを発見。内容や表現の類似性から、聖護院文書も同時期に作成されたと推定した。

 城川さんは「中世は七つの宿を順に泊まり歩いたのかもしれないが、江戸時代後期には宿のほとんどが崩れるなどしていたのだろう」と解説。「八菅修験の修行コースは八菅山から大山に向かう。八菅山をスタートして山中に入った後は唯一利用可能な宿だった不動沢に泊まり、そこから日帰りで山中の修行に出掛けたり、集落に出てお札を配ったりして最後にゴールの大山へ向かったのだろう」と推測している。

 地元の愛川町では八菅山を貴重な地域資産としてアピールしていきたい考え。2月11日には城川さんを講師に迎え、「愛川町の山岳文化を学ぶ」と題して八菅山を歩くイベントを地元の住民グループと協力して実施した。

 城川さんはそのイベントで、研究成果や修験道の拠点だった八菅山について説明。25人の参加者からは「地元に住んでいても、八菅山の重要性を知らなかった」と驚きの声が上がっていたという。

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