福島第二原発の危機対応から学べるもの 第4回 「皆、帰らないでくれ」

廃棄物処理建屋の電源からの仮設ケーブル敷設(画像提供:東京電力ホールディングス株式会社)

2011年3月11日の東日本大震災で、福島第一原子力発電所と同様に地震・津波の被害を受けながらも、炉心損傷に至ることなく全号機の冷温停止を達成した福島第二原子力発電所。現場指揮に当たったのが、当時所長だった増田尚宏氏だ(現日本原燃株式会社 社長)。危機的な状況の中でも落ち着いて的確に現場をまとめあげたリーダーシップは海外でも評価され、ハーバード・ビジネス・スクールの授業でも取り上げられているという。その増田氏が当時を振り返った。

福島第二は700人の所員がいたんですが、8割以上は地元住民でした。そのうち津波で23人が家を流されています。身内が亡くなった人は8人いました。ただ、そんな状況でも私はこのときに、皆に「帰らないでくれ」と指示をしています。1人、2人と帰り始めたら、絶対に皆が動揺してしまうと感じました。「あの人が帰ったから、私も帰らなくちゃ」と連鎖する危険性があったので、全員に「帰るな」と明確に伝えています。当時の週刊誌などには、「福島第二の所長は鬼になって、柵を閉めて誰も出さないようにした」などと報じられましたが、実態はかなり違いますが、そのくらいに思われてもおかしくないぐらいがっちりやらせてもらいました。何回かにわたって私は帰らないでくれと言っていますが、7月ぐらいに、状況が落ち着いてきてからは、勤務の形態も変えながら、家庭を優先してくれと言っています。そこまで皆が踏ん張ってくれたのは、本当にありがたかったです。

逆に、絶対皆と連絡が取れるようにするんだということで、連絡を取るための専門の係を使って、徹底的に安否不明の家族も探してもらっています。ただ、NTTの電話は通じない、携帯も通じないという中で、避難も始まっているので、家族とコンタクトすることも難しく、安否確認に1週間から10日かかっています。それでも、10日かかって、皆が何とか自分の家族と連絡が取れた。そこまで、よく我慢してくれたと思っています。

メンタルはベトナム戦争以上の悪さ

3カ月ぐらいは皆がここで寝起きしました。私は最初の100時間は全く寝ていませんし、1年半、この発電所でずっと寝起きもしていました。幸い、重症のけが人や大量の被ばく者が出なかったというのは非常にありがたかったことです。一方、皆、地震津波の被害者でもあるわけですが、東京電力の社員ということもあって、避難所に行って配給品をもらおうとすると「何で東京電力の人間なのに水をもらっているんだ?」とか、あるいは東京電力のユニフォームを干していて、いろいろ言われたとか、辛い思いをした人も多かったというのがあります。

医療面では、お医者さんがいてくれたので本当に助かりました。しかし、メンタル面の専門家がいないんですね。同じ年の4月に防衛医大の先生にアンケートを取ってもらったんですが、家族・同僚と死別したとか、福島第一の爆発を見たとか、福島第二の所員のメンタルヘルスは、アメリカの医学誌に報告されていますが、「ベトナム戦争以上の悪さ」と言われました。おそらく、福島第一の所員はさらに悪い状況になっていたでしょう。 

職場の環境については、もともと生活するような場所としては整備していませんので、途中から、洗濯機や乾燥機を持ってこようとか、ベッドを作ろうとか、シャワー室を設置しようとか、いろいろな工夫をしてもらっています。中でも一番大切だと思ったのがトイレです。

福島第一は残念ながら水が全く手配できなくて、トイレで苦労していました。ぐちゃぐちゃの仮設トイレで皆頑張ったんですが、福島第二は、私が、外から来た水は、飲料水じゃなくて、まずはトイレの水をためておく槽に入れろという指示をしていて、トイレだけはきれいに保つというところを一番気に掛けていました。

食事は、最初はクラッカーだけです。そして備蓄していたカップラーメンやアルファ米でしばらくずっと生活していました。そのうち、いわき市から、お弁当を作ってくれるという話をいただきました。事故以来、生野菜を初めて食べたのはゴールデンウイークです。途中でお弁当に「頑張れ東電」というシールが貼られてきて、これには涙が出ました。我々が皆さんにご迷惑を掛けて避難させてしまっているのに。そして皆さん、プロのお弁当屋ではなく、いろいろな方が作ってくれているのが包装紙を見ると分かるんですね。最終的に1年3カ月後に通常の食堂が戻ってきています。そのときには笑い声が初めて聞こえてきました。

 

「制服で行かせてくれ」

地域の活動については、地域の方には本当に申し訳ないことをしてしまったのですが、その方々が一時帰宅するに当たって、線量を測定するなどの作業を行う必要がありました。地元の自治体の方は、いざこざが起こるのを恐れ、東京電力の制服(ユニフォーム)で来ないでほしいとおっしゃっておりましたが、私は逆に、制服で行かせてくれというお願いをしています。ずっとこれから存在させていいただかなくてはいけないのに、最初から制服ではなく、偽った形で作業させていただくのはまずいと思ったので、制服で行って、何とかうまく存在を認めていただこうと思いました。ただ、やはり怖さはあったので、地元出身で地元の方と話せるような年配の所員もいたので、もしトラブルがあればお願いしますということで、同行してもらっています。徐々に地元の方からも、我々が一生懸命、汗を流しながら働いているのを見て、「ご苦労さん」と言ってくれるようになったのは非常にありがたかったです。結局、地元の方と衝突して大変な思いをしたという案件は、一件もありませんでした。今も、お墓の片付けや、皆さまに戻っていただけるような家の片付けなどを東京電力全員でやっていて、延べ40万人ぐらいがこうした復興支援活動に当たっています。東京電力がこの福島の責任を果たすというのは、とても大事なことだと思っています。

(2018年11月8日に行われた一般社団法人レジリエンス協会の定例会より)

(続く)

第1回 ハーバードで取り上げられたリーダーシップ
第2回 現場の安全を守る
第3回 土地を知っていたことが奏功

(2018年11月8日に行われた一般社団法人レジリエンス協会の定例会 講演より)

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