薩摩閥三島通庸、土木建築の成果と民衆弾圧 <土木県令>と<鬼県令>の真逆な顔の辣腕政治家

三島通庸(山形県令時代、山形県立図書館蔵)

明治期の政治家三島通庸(みちつね、1835~88)ほど、県令(現知事)として勤務した東北地方で評価の極端に分かれる人物も少ない。辣腕(らつわん)政治家三島は初任地山形県では<土木県令>として「後進県」の近代化に尽力し、帝都に通じる道路やトンネルをつくり、同時に県庁など公共施設の近代建築化に果敢に挑んだ。その目を見張る土木建築事業の成果は、恩恵として、また遺産として同県人に高く評価されている。ところが山形県の後に赴任した福島・栃木両県では評価は逆転し、自由民権運動を弾圧する憎むべき<鬼県令>として語り継がれている。悪評ばかりとも言える。

栗子山隧道開通式

明治14年(1881)、明治天皇は、天皇行幸史上最も長い国内視察の旅に出られた。7月31日に皇居を出発し、東北・北海道を御巡幸の後に、10月3日新たに開削された栗子山隧道(くりこやまずいどう、トンネル)を御通りになることが決定した。山岳地に開通した同隧道は当時東日本で最長であった。県令三島はこの記念すべき日に合わせて竣工式を挙行した。隧道の中の左右の壁に洋風ランプを取りつけ、隧道入口には大きな反射鏡を置いて内部を明るく照らした。天皇が御着きになる時には祝砲に変えて花火を打ち上げることにし、30発の花火を行在所(あんざいしょ)の西側に用意した。行在所には玉座の次に故大久保利通と名君であった米沢藩主・上杉鷹山の肖像画をかかげ、中央に栗子山隧道の絵画を飾った。三島の依頼を受け当代一流洋画家・高橋由一が筆を執った油絵の大作である。

午前10時、天皇の馬車が行在所に御着きになった。県令は「本日、栗子山隧道が落成し、庶人通行の開業式典に天皇陛下の御来駕があったことはこの上ない栄誉なことであります」と言上した。県令三島は記念の品に由一が描いた栗子山隧道西口の図を献上すると、天皇はことのほか喜ばれた。歓談の後、正午になって天皇の一行は出発した。三島県令は隧道東口まで先導し、西口に帰って来た。翌日、開業式に参加した全員に向かって県令は挨拶をした。

「人は知見を開くにあり、知見を開けて才智具(そな)わる。国は富饒を致すにあり、富饒致して兵力強し知見は交際を広くし富饒は産業を盛んにするにあり。此の2つのものは他になし、人相い往来し物相い流通するにあるのみ、山形の県たる山河四塞往来を便にして流通を資(たす)くるは牧民官の急務深く之を講ぜずんばあるべからざるなり」。

 <土木県令>の最良の日であった。

河野広中(晩年、福島県立図書館蔵)

福島県令就任へ

明治14年8月、三島は福島県令を兼任せよと政府から命じられた。内務卿松方正義は三島と同じ薩摩閥である。「14年政変」(後述)前に内務卿に就いた松方は不平士族や自由民権派を徹底弾圧し、全国の警察を掌握して集会や演説から新聞雑誌の発行まで干渉した。言論の自由を奪った。

戊辰戦争で薩長軍(西軍)に「賊軍」として叩きのめされた福島県では、藩閥政府批判の動きが台頭していた。県令山吉は福島自由党の総帥河野広中(ひろなか)の意を受けながら県政を預かっていた。内務卿松方は14年8月、三島に福島県令兼務を要請した。

同年10月3日、三島県令が、明治天皇をお迎えして栗子山隧道工事の開通式を行っている頃、随行の参議筆頭頭大隈重信を閣外に追放する話が刻々進められていた。それから18日後の10月21日に政変が勃発し、大隈重信とその一派は政府から追放された。「14年政変」である。事の起こりは伊藤博文が憲法を制定し国会を開会して民意を採用しなければならないとして、大隈重信と井上馨に憲法草案を示して相談したところ、大隈は伊藤の草案より急進的草案を作成して、左大臣・有栖川宮熾仁(たるひと)親王に提出し天皇に上奏するまでは極秘にするようにと口止めしていた。

大隈は薩摩・長州の参議ら政府幹部を悪者扱いにして、民権派の勢力と提携し、自らの手によって政権を支配する野望を遂げようとした。これを知った伊藤は、薩摩・長州派の結束を固め、右大臣・岩倉具視を中心に巻き返しを図って遂に大隈とその一派を追放した。

政府は10月20日、9年後の明治23年(1890)に国会を開設する大詔を渙発して世論を静め、その間地方の民会等によって民衆の理解を求めた後、国会開設に踏み切ることにした。10月29日、自由党が結成された。総裁は板垣退助だった。自由党は、即時国会を開設せよと叫び、過激な言動をもって政府批判をした。一部には政府高官を暗殺し、官庁を襲撃して政権を奪取しようとする不穏な動きもあった。言論界の批判的論調や民権論者の過激な行動は、政府の危機意識をあおり、政府は厳重に取り締まる必要があった。政府は<剛腕>三島通庸に白羽の矢を立てた。三島は井上毅から政府が転覆するのではないかとの危機的状況を聞かされ、大隈らその一党が薩長派を追放しようとたくらんだことを知ると、福島県令を引き受ける決意を固めた。

自由民権派・弾圧

三島が福島県令兼務を引き受けたのは、「14年政変」の3カ月後の明治15年(1882)1月25日である。三島、46歳。20日後の2月17日には福島県庁入りした。事態は急を要した。三島の前任県令は山吉盛典(旧米沢藩士)であった。山吉は明治11年(1878)7月25日に福島県令に就任したが、県議会の制度が出来ると、河野広中らの一党に押し切られて、県政は議会の意のままにされるようになった。福島自由党が飛躍する素地が養われた。

福島県議会は弱冠32歳の河野広中が議長となり、福島自由党を掌握していた。福島自由党の結成は、明治14年12月22日とされる。自由民権運動の中核である自由党地方部が福島に結成された時、民権運動弾圧をもくろむ三島通庸が県令として福島に赴任した。三島は、赴任直後から独自の方針を強引に推し進めた。会津6郡の連合会を組織して、3月には連合会を開催し、三方道路開発のための服役負担と施行手続きを決定した。これは、「国庫下付金の懇請許可の上は」との修正がなされたが、路線査定や工事経費の見積もり、予算金等を決定しないまま6郡人民の負担だけを決定したものだった。

政府より国庫金26万円下付という「餌」で釣った。地域開発は、地域住民にとって切望するところであったから、国庫金が保障されれば拒否する性格のものではなかった。結果は、郡内の人民に対する厳しい代夫賃取り立てと、強制労働をもたらした。三島はこの地でも「土木県令」であった。三島は、自ら招集した4月の臨時県議会や通常県議会にも出席せず、自由党との対決の姿勢を鮮明にしていた。河野広中らの自由党員が中心であった県議会は、提出される議案をすべて否決するとの「議案毎号否決」動議を可決させ三島と全面対決した。

会津の三方道路開発が6月から実施され、代夫賃取り立てと工事服役の実態があからさまになってくると、猛然と反対運動が展開された。運動は宇田成一、山口千代作、赤城平六などが中心となり、8月から工事服務反対・権利回復の同盟として発展した。

急速な反対運動の盛り上がりに、三島は危機感を強めた。10月末に県官(職員)海老名一等属と巡査400人さらに自由党に対抗するために組織された帝政党員を喜多方に送り、代夫賃・服務拒否の同盟員に対して財産差し押さえと公売処分を強行し、証拠が固まり次第指導者層を一斉逮捕する方針を指示した。事態は緊迫したが、<鬼県令>は一歩も引かなかった。
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11月24日、反対同盟の中心人物・宇田成一が逮捕され、続いて植田勇知・羽鳥諦呉・佐治幸平ら指導者層が次々に逮捕された。28日指導者逮捕の抗議のため、周辺農村から農民数千人が喜多方に集結し、一旦、塩川街道の弾正ケ原(だんじょうがはら)で集会を開催した。その後、再び喜多方に引き返し、警察署を包囲し宇田らの逮捕理由を問いただした。一触即発の状況下、群衆に紛れこんだ挑発者が投石したのを合図に警察官が抜刀して群衆に襲いかかり、この事件を契機に河野広中をはじめ県下の自由党員を一網打尽に逮捕した。

県令三島は事件の翌日、村上少書記に「喜多方奸民(かんみん)が乱暴したことは好機会故(ゆえ)、関係の者すべて怠りなく捕縛せよ」との旨を電報で指令した。この意を受けて村上は同日、新合(しんごう)村の同盟本部で同盟幹部40余人を逮捕し、さらに「この機会を逃さず自由党の根を絶つべし」との指令を出した。12月1日、福島町の無名館で河野らを逮捕し、ここに福島の民権指導者層のほとんどすべてが逮捕され、組織は壊滅し運動が終焉したのである。

河野らの罪状は、国事犯=内乱陰謀罪であったが、当初主要な証拠としてみなされていたのは、同盟本部の「特別内規」であった。だが、その趣旨内容は「単に道路反対だけでなく、政治の改良を図ることを目的とする」であったから、これでは国事犯の証拠としては極めて不十分であった。明治16年(1883)になって、花香恭次郎の草稿による「無名館盟約」の存在が明らかになり、「政府転覆」の文字があったとの自供を証拠として(現物は未発見)、同年9月、河野広中・田母野秀顕(たものの ひであき)らに国事犯として6~7年の有罪判決が下った。「転覆」の2文字によって有罪となったことから「二字獄」といわれた。

三島通庸の墓(青山霊園)

栃木県での辣腕ぶり

明治16年(1883)11月、福島県令三島は勅任官となり、隣県の栃木県令も兼務することになった。55歳。三島はここでも有無を言わせない<鬼県令>だった。彼が手掛けた最初の公務は県庁の移転であった。県令赴任時の県庁所在地は栃木町(現栃木市)にあった。「県庁を県の中心部にあたる宇都宮に移すべきだ」との声が高まっていたが、栃木町はじめ県南部では移転に猛烈に反発し、現状維持を訴えた。河内郡長河郡は三島県令の県庁移転は実現可能とみて、町民を招集し募金などの具体策に入った。町民代表鈴木久右衛門らは「県庁新築の経費は私どもで金5万円を目的として募集」(栃木県史料)するとし、他に師範学校や監獄署などの移転で6万円を河内郡4万円、残る2万円を那須・塩谷・芳賀・上都賀4郡(栃木県の北部や中央部)で分担することになった。

県庁移転が宇都宮に正式に決定されたのは、明治17年(1884)1月21日であった。三島は直ちに庁舎工事の着手を命じ、100日余りで3層楼・和洋折衷の三島好みの豪壮な県庁が完成した。開庁式は9月15日を予定したが、民権家による政府高官暗殺との不穏な動きや、加波山事件の勃発により次々に延期され、やっと10月22日に挙行された。県令三島の県庁移転と庁舎新築は、民意を無視した独断即決で行われ、民権運動の弾圧を狙った政治策動とも見られた。加波山事件を頂点とする民権家の過激な行動は三島の薩長派閥的強権を背景とする剛腕さと無関係ではなかった。

(<参考>加波山事件とは明治17年(1884)、自由党急進派が茨城県の加波山に蜂起した事件で、福島事件に連座し三島の暗殺を狙っていた河野広躰(ひろみ、河野広中の甥)ら福島自由党員が、政府転覆を企てていた栃木県党員鯉沼九八郎らと結んで、大臣や顕官の暗殺を計画したが失敗した。後に茨城県下館の富松正安を頼って加波山に立てこもり警察署を襲撃した。次いで宇都宮の県庁を襲う途中警察隊と交戦し、多数が検挙され、7人が死刑となった。民権運動の激化の象徴的事件の一つだった)。

参考文献:「三島通庸文書」(国立国会図書館)、「山形県初代県令三島通庸とその周辺」(小形利彦)、「福島県の歴史」(山川出版社)、「栃木県の百年」(大町雅美)。

(つづく)

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