【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.169

▲江戸城平川門(東京都千代田区)

(3月27日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

総攻撃の中止

 海舟と隆盛は、慶喜の水戸での謹慎、軍艦や砲銃の引き渡しなど、7条件で合意した。

 これにより、3月15日に予定されていた、東征軍による江戸城総攻撃は中止となった。

 こうして隆盛は、駿府に戻ると、親征大総督に復命。20日、京都へ入ると、朝議が開かれた。 

 そこでは、岩倉具視や木戸孝允らが寛大論を唱え、大久保利通も折れる形となり、7条件は承認された。

江戸城無血開城

 4月11日、江戸城は東征軍に引き渡された。この日、慶喜は、上野寛永寺から、水戸へと退去した。

 だが、その後も江戸とその周辺は、不穏な空気に包まれていた。

 旧幕府側の軍艦、銃砲の引き渡しについては、元海軍副総裁・榎本武揚が、それに応ずる気配を見せず、12日には安房館山に退去。17日、海舟の説得により、品川沖に引き返してきた。

 また、元歩兵奉行の大鳥圭介は、江戸を脱走し、旧幕府軍の伝習隊を率いて北上をはじめた。

 護衛すべき慶喜が去った寛永寺では、その後も彰義隊の大勢を占める天野八郎らの強硬派が気を吐いていた。

(続く。次回は4月10日付に掲載します)

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