西武黄金期を支えた沢村賞右腕の今―「親子教室は僕らも原点に戻れる場所」

アカデミーコーチ7年目の石井丈裕さん【写真提供:埼玉西武ライオンズ】

アカデミーコーチとして7年目、石井丈裕さんの輝かしい野球人生

 2019年のプロ野球が開幕した。元プロ野球選手が講師を務めるライオンズアカデミーも新年度がスタートし、かつて沢村賞を獲得、日本シリーズMVPにも輝いた石井丈裕さんは、アカデミーコーチとして7年目のシーズンをスタートさせている。

 早実高では、荒木大輔日本ハム2軍監督兼投手コーチと同級生。3年時には、荒木2軍監督の控え投手として夏の甲子園にも出場した。卒業後は法大に進学し、4年時には大学日本代表としてもプレー。その後、社会人のプリンスホテルに進み、ソウル五輪日本代表にも選出され、ローテーションの柱として銀メダル獲得に貢献した。

「日本はあんまり喜びを爆発させないけど、海外のチームは1点取っただけでも大騒ぎ。そういう日本の野球との違いに、国際大会の面白さを感じましたね。日の丸を背負うプレッシャーは感じなかったですが、野球はほかの球技に比べて、プレーには瞬発的な判断が大事なのに、考える時間が多い。五輪の舞台に立つまで、自分なりに気持ちの持って行き方を学びました」

 その後、1988年ドラフト2位で西武に入団。92年には15勝を挙げ沢村賞を獲得。その年の日本シリーズ第7戦では10回完投勝利で胴上げ投手になり、シリーズMVPに輝いた。翌93年も12勝を挙げ、94年はリリーフとしてチームの5連覇に貢献するなど、西武の黄金期を支える活躍を見せたが、その後は怪我の影響もあり、96年は未勝利に終わると、97年オフに日本ハムにトレードで移籍。移籍後2年間は思うような結果を出せず、99年オフに戦力外通告を受けた。その後、複数球団の入団テストを受けるも不合格。現役続行を希望し、台湾の台北太陽に選手兼コーチとして入団した。

「まだできるのに、プレーする場所がなくなった。今みたいに、独立リーグもなかったから、台湾でプレーしていた渡辺久信さん(現・西武GM)に相談しました。コーチとしては苦労しましたね。1年目は日本語ができる通訳がいなかったから、通訳に英語で話して、英語を中国語にしてもらっていました。通訳は野球用語を知らなかったから、漢字を地面に書いて伝えていました」

アカデミーコーチ7年目の石井丈裕さん【写真提供:埼玉西武ライオンズ】

「親子でキャッチボールをやる楽しみを覚えてもらいたい」

 沢村賞、そしてシリーズMVPと数々の栄光を手にしたが、そんな台湾の環境の中に置かれても「野球を楽しむことができた」と、笑顔を見せる。

「南の高雄で試合が終わると、台北までバスで帰るんですが、途中のコンビニでご飯を買ってバスの中で宴会になるんです。次の日の朝に台北に着くんですけど、日本では考えられないですよね。純粋に野球を楽しませてもらいました」

 単身で台湾に渡っていたが、学校が休みになると子供たちが台湾の球場に遊びに来た。全く知らない選手ばかりなのに、台湾の野球カードを買って喜ぶ息子の姿を見るのが嬉しかった。しかし、学校が始まれば子供たちは日本に戻り、また離れ離れの生活になる。当時は子供たちとの時間を十分に持つことができず、キャッチボールをして遊ぶこともままならなかった。だから今、アカデミーのイベントで親子がキャッチボールをしている姿を見ると、幸せな気持ちになるという。

「お互いに笑いながらキャッチボールをしているのを見ると、微笑ましいですね。投げるコツ、捕るコツを教えてあげると、楽しそうにやってくれる。親子でキャッチボールをやる楽しみを覚えてもらいたい。そして、何世代も野球に興味を持ってもらえたら、野球人口も増えていくと思います。今の子どもは、ゲームやパソコンなどやることがたくさんある中で、投げたり、捕ったりに興味を持ってくれたら、それが野球につながってくれると思います。親子キャッチボール教室は、僕らも原点に戻れる場所です」

 近年、野球人口の減少が叫ばれている。西武の黄金期を支えた右腕は、親子でキャッチボールする時間があることの素晴らしさ、そして野球の楽しさを後世に伝えていくことに尽力している。(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)

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