【高校野球】「末代までの恥」発言受けた球児が振り返る 今だから分かる敵将の野球愛

草野球マネジメントツール「teams」を運営する「SPOLABo」の津村勇宜さん【写真:編集部】

2010年センバツ 開星高校に勝利した21世紀枠・向陽高校メンバーのその後

 先日、とある仕事の打ち合わせの相手と高校野球の話題になった。聞くと、甲子園出場経験があるという。2010年の第82回センバツ、21世紀枠で出場した向陽高校(和歌山)の2年生の時に甲子園の土を踏んでいた。

 津村勇宜さんは2年生ながら「2番・三塁」のレギュラーだった。

 高校卒業後、関西学院大に進み、野球部に所属。野球を辞めて大手企業に就職したが、野球への愛情が抑えられず、スポーツマーケティング会社の「SPOLABo」に入社。現在はウェブ上で草野球の記録を残せたり、リーグ戦の運営をするチームマネジメントツール「teams」の制作に携わり、草野球好きにサービスを提供している。

 向陽高校は旧制の海草中学校時代、1939年、40年に夏の甲子園2連覇している古豪。1939年のエース・嶋清一さんは準決勝、決勝でノーヒットノーランを達成した。しかし、招集された太平洋戦争で戦死。「伝説の大投手」として語り継がれ、2008年に野球殿堂特別表彰をされている。

 そんな名門に降りかかった騒動。開星(島根)との対戦後、1-2で敗れた敵将の野々村直通元監督が「21世紀枠に負けて末代までの恥。腹を切りたい。もう野球をやめたいし、死にたい」などと発言。指導者として不適切と世間はバッシングし、ワイドショーなども取り上げて、社会問題になった。

 言われた方はどのような感情を持っていたのだろうか。津村さんは振り返る。

「怒りも不満もありませんでしたよ。傷つけられたという実感もありません」

 世間との温度差はかなりあった。選手たちがその騒ぎを聞いたのは翌日。それも宿舎のテレビで流れてきて知った。ただ当時の野球部長からは一言、注意があった。

「みんなは気にする必要はないけど、違う意味で21世紀枠の自分たちに注目が集まってしまっているから、行動に責任を持つようにという話がありました」

 行動に責任を持つ――。注目をされるということは常に周りから見られることになる。甲子園期間中も、大会が終わって和歌山に帰ったあとも、人として常識の範囲で行動をすること、と部員の中で共通認識を持った。

「ゴミ拾いをしっかりするとか、当たりまえのことをしっかりやろう、とチーム全員がそういう意識を持っていましたね。僕らの軽率な行動で21世紀枠、甲子園出場したことを汚してはいけませんから。全員で徹底できていましたね。そういう意味では僕らにも影響はあったのかもしれませんが……ただ、これは人として当たり前のことですからね」

「強い私学に負けるな!」注目度が増し、向陽を応援する高校野球ファンが増える

 唯一、「今でもいい影響として僕の記憶に残っています」というのは、次戦の日大三(東京)との試合だった。敗れたが、試合前からこれまでにない空気、追い風を感じた。

「観客の方から『強い私学に負けるなよ!』とか『頑張れ!』とかキャッチボールをしている時から聞こえてきました。僕たちがヒットを1本打っただけで大歓声でした。応援の力を感じましたね」

 甲子園で起きた“事件”によって、注目され、周囲の反応は大きく変わっていた。野球ファンだけでなく、知人友人からも喜びの声をたくさんもらった。21世紀枠の県立高校が私立に勝っただけではここまでの応援は得られなかった。甲子園での出来事が津村さんの人生に大きな影響を及ぼした。

「夢を叶えたことが、こんなにも人の喜びに繋がるのかと思いましたね。自分が努力をすることで多くの人に喜びを与えられるような仕事をしたいと思うようになりました」

 4年間、関西学院大の野球部でプレー。大学卒業後は世界的に見ても一流と呼べる企業に就職した。しかし、頭のどこかに、野球で人々の心を動かす仕事をしたいと思うようになっていた。思い切って、野球に携わる仕事に転職した。

 今の仕事に就いてまだ2~3か月。今回のように甲子園の話題になると9年前の出来事を思い出すという。

「自分も私立の大学に進んで硬式野球部だったのですが、部内には公立の大学には絶対に負けてはいけないという雰囲気はありました。それを感じた時、開星の野々村さんの気持ちが少しわかったような気はしました。最初は『指導者としてあの発言はどうなのだろう』と思いましたが、本気で野球に向き合い、勝ちに来たから、そういうコメントになったのだろうと、想像がつきます」

 野々村監督はその後、発言を謝罪。2012年3月に開星高校を定年退職後、画家兼教育評論家と活動している。津村さんは野々村監督がテレビ出演で騒動の真意を語っていたのを見た。自分がイメージした経緯と一緒だった。

「それまで、僕らは試合直後の野々村さんしか知りませんでした。ただ改めて発言の経緯を聞いて、野球を愛しているな、と。選手に愛を持って接し、あのセンバツで本気で全国の頂点を取るという気持ちで挑んでいたことを知りました。それで21世紀枠出場の公立に負けてしまったら…今となったら分かる気はしますよね」

 当時の向陽高校のメンバーの中には津村さん以外にも中学野球の監督など、野球に携わっている人もいる。津村さんもあの一件から野球への思いが強くなり、野球ファン、プレーヤー人口の増加を目指している。自身が運営する「teams」は人と人とを繋ぎ、野球の面白さを伝えていくことが根底にある。サイト内で草野球リーグを作り、5月に発足させる予定だ。そのツールについて力説する目は、輝いている。

「野々村さんは僕以上に野球を情熱を持っている方なんだと思います。野球人の先輩としていつか会って話を聞いてみたいですね。あの方の草野球を含めたアマチュアの野球に対する考えとかとても興味があります」

 決して苦い記憶ではない。野球への思いを強くしてくれた1試合として津村さんの心には刻まれている。(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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