幻の交差点を探して  セントラルパーク銀輪散策③

 

ランデルが打った測量用の鉄杭。目標は65ストリートと7アベニューの架空の交錯点。ヒントは後方の建物
英国の田園風景を思わせる景観だが、実はすべて人工。爆薬を多用した地ならしと綿密な設計のなせる業だ

2014年、プロアマを交えた地元の歴史家グループが、セントラルパーク南部で貴重な遺物を発見した。4億5000万年前の岩石に深く打ち込まれた「鉄製」の杭である。

 マンハッタンに碁盤の目の都市構造をもたらした「1811年委員会計画」の準備中、当時の担当技師ジョン・ランデル・ジュニアは、ストリートとアベニューの交差点となる場所に測量用に大理石の指標を埋め込んだ。その数550余。標識の敷設が困難な岩盤には、鉄杭100本余を打ち込んだ。おかげでニューヨークは整然たるの条理制を獲得したわけだが、標識も鉄杭も200年余の都市成長過程でほとんど失われ、歴史博物館に1本保存されているのみだった。

 ところが、2年前にセントラルパークで石製の標識が発掘された。その後、前記の「鉄杭」を皮切りに園内で計6本の標識や杭が次々に発見された。

 つまり当時は、現在公園のある場所まで、あわよくばマンハッタンの北端まで「碁盤の目道路を作る」計画だったのだ。公園のおかげで壮大な都市計画は幻と化した。

 歴史家と公園保護委員会の粋(?)な取り決めで、現在のところ、この貴重な史跡の正確な位置は、明かされていない。地図上にもない。「65ストリートと7アベニューが交差したであろうコーナー」としか公表されていない。

 ちなみに「園チャリスト」の機動力と観察力で丹念に探すとこれが見つかる。手がかりは左の写真の後方に写っている建物だ。自転車があるとこんな秘密の史跡ハントも楽しい。興味のある方はぜひ挑戦あれ。

英国の田園風景を思わせる景観だが、実はすべて人工。爆薬を多用した地ならしと綿密な設計のなせる業だ

公園誕生の陰で消えた村

 さて、公園誕生に話を戻そう。1857年の公募の結果、「グリーンズウォルド計画」を採用した市当局は、設計者オルムステッド総指揮の下、同年、造園作業に取り掛かる。それに先立ち、公園予定地内の先住者1600人余の強制退去が始まっていた。
 中でも、82~89ストリートの7、8アベニュー間辺りにあったセネカ村(人口264人)の話は胸が痛む。1825年に開かれたニューヨークで初の非奴隷黒人の村落で、三つの教会と二つの学校を中心につましくも自由な生活が営まれていた。なのに1世帯わずか700ドルの補償金を積まれ、土地を追われた。「市民のための公園建設」の名の下、社会の最底辺にあった村が丸ごと消えた。何とも皮肉な話だ。

 先住者を追い払うと、いよいよ19世紀米国最大の公共土木工事の開始である。起伏が激しく所々に巨岩が突出する荒地は、黒色火薬で爆破して整地。次回は、移民や地方の労働者をかき集めて2年弱で開園させた凄まじい工事の様子を振り返る。(中村英雄)

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