テニアン出身、沖縄ルーツ 米教師、学童に多様性伝えて

 相模原市南区の小田急相模原駅にほど近い民間学童保育は、木曜日の夕方になると、英語を初めて学ぶ小学生たちの声であふれる。講師を務める米国人教師のパトリナ・ボルハ・トレメルさん(39)は米自治領北マリアナ諸島テニアン島の出身で、曽祖父は沖縄からの移住者。戦争と平和にまつわる特別な歴史を持つ地にルーツを持つ者として、多様性と相互理解の大切さを地域の子どもたちに伝えたいと願う。

 トレメルさんの曽祖父は1917年に沖縄からテニアンに移住した。島は第1次大戦後に日本の委任統治領となり、製糖産業で栄えた。曽祖父と先住民の曽祖母の間に生まれたトレメルさんの祖父は、日本人として育った。

 太平洋で第2次大戦の戦端が開くと、テニアンは激戦地となり、上陸してきた米軍に占領された。島の飛行場からは、原爆を積んだB29爆撃機が広島、長崎へ飛び立っていく。日本軍に徴兵されて近隣の島で終戦を迎えた祖父は、沖縄へ帰国させられた家族と離れ、再会できたのは戦後しばらくたってからだった。

 トレメルさんが幼少期に住んでいた地の近くには、日本統治時代の製糖工場の跡があった。飛行場跡地に残る原爆搭載地「原爆ピット」を訪れたこともある。

 戦争に翻弄された先住民と沖縄の二つの歴史を経験しながら米領の島で生きてきた一家だが、トレメルさんも「日本人の心は、家族から失われなかったのだろう」と感じる。少女時代には、いつも父から日本語を学ぶように諭された。「『いつ使うの?』と反抗していた。言われたとおりにすればよかったと、日本に来るときに思った」

 グアムの大学を卒業後、米国防総省の教育部門で教職に就き、ハワイや米本土などに赴任。2度目の日本勤務となった米軍相模原住宅地区(相模原市南区)の小学校に勤める中、「もっと日本を学びたい」と昨年4月から、近くの学童保育「みらいく」で英語教室を受け持つようになった。

 「初の英語体験となる日本の子たちはシャイだから、教える側も日本的文化を理解することが重要」。スクールカウンセリングの修士号取得を目指して勉強中でもある教育者には一方で、多様性の豊かな自身のルーツがはぐくんだ思いがある。「生まれた地に関係なく、他者への敬意と信頼が常に大切だと、子どもたちに伝えたい」

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