今月の視点「利己主義」に走る悪しき慣習だけは断ち切るべき  先月、年初めにかなり激しい雨が降った。この国に来て9年目になるが、東から台風が来ていたとはいえ、乾季の真っ只中の1月に天候が崩れたのは初めてだった。

先月、年初めにかなり激しい雨が降った。この国に来て9年目になるが、東から台風が来ていたとはいえ、乾季の真っ只中の1月に天候が崩れたのは初めてだった。

今月の視点「利己主義」に走る悪しき慣習だけは断ち切るべき

温暖化による異常気象が忍び寄る やっと実施が決まったCOP21

先月、年初めにかなり激しい雨が降った。この国に来て9年目になるが、東から台風が来ていたとはいえ、乾季の真っ只中の1月に天候が崩れたのは初めてだった。 また、先月中旬には韓国ソウルやお隣りバンコクの大気汚染レベルが危険水域に達したというニュースも流れた。やはり地球温暖化の影響が少しずつだが表面化しているようで不気味だ。
折りしも昨年12月にポーランドで開催された国連気候変動枠組み条約「第24回締約国会議」(COP24)で、地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」の実施ルールが採択されたばかりだった。途上国を含む全参加国が温室効果ガスの削減に取り組むこの温暖化対策は、2020年1月19日の実施に向けて本格的に動き出した。
15年に採択されたパリ協定は世界の気温上昇を2度未満、できれば1,5度未満に抑える目標などの大枠を定めたが、実施には詳細なルールが必要だった。しかもCOPは先進国と途上国の対立で協議が難航していた。
実施ルールでは、先進国と途上国の区別なく効果ガス削減の目標設定や取り組みの検証について、共通の厳しい基準を設けることになった。中国などにも確実に削減させたい先進国に対し、途上国は十分な技術・能力がないとして緩やかな基準を求めて対立したが、途上国に一定の柔軟さを認めることで折り合いが付いた。先進国が2年ごとに可能な範囲で途上国への資金支援の金額を明示することを認めたからだ。
議長を務めたポーランドのクリティカ環境副大臣は、「長い道のりだったが、われわれの努力は国家利益でなく後世のためのものだ」と強調したが、まさにその通りだった。大国のエゴや途上国の改革意識、資金不足などで混迷を続けてきたが、冒頭で記したアジアの異常気象や地球規模の温暖化現象を見るにつけ、まさに遅きに逸した感が否めない。

「遺憾」に終始する日本政府の歯がゆさ 外交言葉でも時には断固とした表現で

年が明けてもうひとつ不快感、いや噴飯物だったのが、先月10日に行われた韓国大統領の年頭会見である。昨年から隣国が引き起こした理不尽な問題への解決策を示すかと思いきや、まるで火に油を注ぐような手前勝手な演説を行った。そして相も変わらず反日を助長させる内容だった。
もううんざりである。まともな論理が通じない相手に対して、これ以上関わりたくない気持ちにもなるが、この期に及んでも日本政府はまだ「遺憾」のコメントに終始している。いくら外交用語だとしても、これは本当に歯がゆい。
そもそもこの「遺憾」という言葉は「思い通りにいかず心残りなこと、残念なこと」という意味にしか過ぎない。「遺」という漢字は、「忘れる、失う、残す」という意味であり、「憾」は、「うらみ(心残りに思うこと、残念に思うこと)」と解釈される。だからこの2文字が組み合わさった「遺憾」は、本当は怒り心頭なのだが、その感情を抑制して不快感や不満を伝えるような消極的でまどろつこしい表現にしか思えない。そのためいつ聞いてもじれったさが増幅する。
先月、カナダのトルドー首相は、中国で麻薬の密輸で逮捕されたカナダ人への死刑判決に対して「中国が恣意(しい)的に死刑を適用するようになったことはカナダ政府にとって非常に憂慮すべき事態で~」と述べ、中国を非難した。これを受けて中国外務省の華春瑩副報道局長は、「各国の言論に強烈な不満と断固反対を表明する。」と反論した。むろんこの死刑判決はハゥウェイ幹部を逮捕したカナダへの報復との見方が強いが、事の真偽はともかくとして、中国のこの反論はかなりのインパクトがあり、彼らの感情がストレートに伝わってくる。
日本もこのくらいの反論抗議ができないのか。それが無理ならもう少々強い言葉、たとえば無念千万(悔しさが尋常ではないこと、非常に残念なこと)や「断固承認しかねる」ぐらいは言えないのだろうか。
しかし、いくら言葉で抗議したところで、先様には暖簾(のれん)に腕押しかも知れない。黒を白と言ってまでしらを切り続け、謝罪する気など毛頭ないのだからお話にならない。

利害が絡むと一変するミャンマー人 非を認めない見苦しい態度はやめよ

ミャンマー人は親日的でお人よしの国民性だとよく言われる。確かに普段の友人付き合いでは友好的で、すぐに打ち解ける気さくな人々である。
しかし、一旦金銭や利害、権利が絡んでくると、これがなかなかしたたかな側面を持つ国民でもある。特にたとえ自分に非があったとしても、我々日本人のように簡単にそれを認め、謝罪などしてくれない場合が多い。
昨年、ヤンゴン市内を運転中に、YBS のバスにフェンダーをぶつけられた。並行して走っていて、当方は時速30㌔くらいで直進していたら、左からバスが急に車線変更しようとして軽く接蝕した。おそらくこちらの小型車が運転手の死角に入ったのだろう。
それでどうなったかというと、バスの運転手はわめきたて、その先で停車を命じてきた。そしてご自分がぶつけたのにこちらが悪いの1点張りで騒ぎ立てた。こちらの助手席にはミャンマー人が乗っていて、反論はしてくれたが、バス管理の上司を呼んできて「こいつがぶつかってきて損傷した」というような意味合いの言葉をまくし立てていた。これには唖然としたが、自分が悪いと認めれば、修理代や会社からのぺナルティーを食らう恐れがあったためだろう。
当方は馬鹿バカしくなり、反論をしてもめ事を大きくしても外国人でアウエーだから勝ち目がないと踏んだので、バスの小さな傷の修理代2万Ks 足らずを渡して和解してしまったが、気分的にはどうしても納得がいかなかった。 過去、これと似たような理不尽な出来事には何度か遭遇した。入居して1週間でエアコンや配水管が壊れたのを抗議したら当方の責任にされて、絶対に非を認めなかった大家さんもいた。
昨今の韓国政府の言動や対日対応を見ていると、こうしたミャンマー人の見たくない側面を思い出してしまう。あちらは「恨」文化が源流にあるようだが、この国の場合は、おそらく英国植民地時代の利己主義者たちの悪しきDNAを引き継いだのではないかとさえ思えてくる。
欧米諸国は国家・社会の権威に対して個人の意義と価値を重視し、その権利と自由を尊重する個人主義が主流だが、その延長戦上にあるのが、社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する利己主義で、対外的にはこの考え方になる国が多い。
しかし、自己防衛に走るのは心情的にはわかるが、現在の韓国政府の対応を含め、あまりにも常軌を逸したこうした姑息な態度は、非を認めて反省、改善していこうとする我々日本人の気質からは到底理解不能である。
家族を想い、社会的弱者への救いの手を差し出す人が多いミャンマーである。間違っても韓国政府のような見苦しい真似だけはしてもらいたくない。

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