生きて カネミ油症51年の証言 矢口哲雄の闘い・1 復員、結婚 そして異変 救済運動けん引 2月死去

施設で車いすの生活を送っていた矢口哲雄(左)と次女の敏子=2018年11月18日、五島市奈留町

 カネミ油症被害者、矢口哲雄=長崎県五島市奈留町=は昨年11月、同町の高齢者施設に入所していた。脳梗塞を患い、車いす生活。次女の敏子(57)がそっと話し掛けた。「お父さんは家族を救ったよ」「今まですごい人とたくさん出会えたね」。矢口は何かを言おうとするが言葉が出ない。顔が紅潮する。涙を浮かべているようにも見えた。

 矢口は1924(大正13)年、上五島・旧若松町の日島で出生。幼い頃、両親は別れた。母に連れられ下五島・奈留島へ。漁師と再婚した母は、その後、7人の子を授かった。

 生活は貧しかった。長男となった矢口は福江島のそば屋のでっち奉公、年齢を偽って14歳で大島炭鉱の労働者、イワシ漁、トラック運転手の助手などをして家計を助けた。

 44(昭和19)年、徴兵検査に合格し10月、満州へ。20歳だった。陸軍で、後方支援する輜重(しちょう)兵として木銃を持ち、荷馬車を引いた。やがて戦況が悪化。隊が朝鮮の仁川に足止めされる中、赤痢が流行し、矢口も血便が止まらなくなった。

 薬はない。軍医は断食を指示した。隊員たちは2週間ほどで次々死亡。だが矢口は発症から22日目、「ほぼ骨と皮だけ」になりながら奇跡的に回復した。この時、断食という民間療法の力を初めて実感したという。

 復員は45年10月。奈留島に着き、知人と実家へ向かう途中、きょうだいらが原爆の犠牲になったと知った。長崎の兵器工場で働いていた妹は大やけどを負ったらしく、父が捜しに行ったが行方不明。長崎で働いていた弟は被爆後、無傷で帰郷したが苦しんで死んだ。弟とよく接した親戚の赤ちゃん、一番下の弟も死亡。後年、幼子2人は間接被爆したのだと矢口は理解した。被爆直後に妹を捜索した父はその後、45歳で原爆症により亡くなった。

 矢口は漁師となり、28歳のとき結婚。4人の子に恵まれた。気さくで料理上手な妻は食堂を始め、やっと順調な人生が始まったように思えた。

 妻が変だと思ったのは、風呂場で矢口の背中を流したときだ。にきび状のものがいくつもあった。その後、隙間がないほどびっしりと広がった。長女は「登校の上り坂がきつか」と言いだし、小学1年の次女は道で転んだり食事の茶わんを落としたりするようになっていた。68年のことだった。
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 矢口は、油症被害者の救済運動をけん引。敬虔(けいけん)なカトリック信徒でもあった。今年2月、95歳で死去した。生前の取材と残された手記から、大正、昭和、平成を生き、油症と格闘した軌跡をたどる。

 矢口哲雄の妻は1968(昭和43)年3月ごろ、体に良くて安いと評判の食用米ぬか油を奈留島で購入していた。家庭でも自営の食堂でも使った。一升瓶数本分を使ったころ、膿(うみ)を含んだ吹き出物が、顔や太もも、背中、皮膚の薄い局部に広がった。

 発熱、かゆみ、大量の目やに、異常なだるさ、顔や体の腫れと痛み、つめの変形変色、脱毛-。次男は暑がって氷をバリバリ食べ、次女は熱っぽさから冷たい廊下を転げ回り、夏が来るのを怖がった。子どもらは学校をよく休むようになった。妻はいつも体の芯が冷え、矢口も漁に出るのがつらくなった。吹き出物は重なるように増え、熱を持った。受診しても医師は首をかしげ、目薬や軟こうを勧めるだけ。原因不明のまま、揚げ物などを食べ続けていた。

 同年10月、福岡で皮膚に吹き出物が出る「奇病」が発生したと新聞報道され、カネミ倉庫(北九州市)の食用米ぬか油に疑惑の目が向けられる。九州大の研究班は、何が混じっていたのかを特定できないまま皮膚症状などでカネミ油症か否かを線引きする診断基準を決定。有害化学物質ポリ塩化ビフェニール(PCB)が原因物質と判断したのは11月だった。

 カネミ油症の情報が奈留島にある程度入ってきたのは69年になってからと矢口は記憶する。その後、矢口、長男、長女、妻、次女、次男は順次、油症認定される。だが報道などによって「油症は皮膚病」という固定観念が定着し、油症治療で病院に行くときは、いつも皮膚科だった。

 「まさか内臓に毒が残るとは。医者も、油症の中毒症状は吹き出物という感覚。だから吹き出物が治れば油症は終わると思っていた」

 体の異変のどれが油症なのか、矢口には理解できなかった。「体中真っ赤になって死んだ人」もいたが、医者がカネミのせいだと言わなければ油症ではない。そんな雰囲気だった。

 70年のある日、妻がこう言いだした。「背中から冷水をかけられた感じがする」。40度以上の発熱が続き、入院。福江島の病院に転院したが熱は下がらず、震えだした。矢口は奈留島に子ども4人を残し、妻のベッドの横にござを敷いて泊まり込み、看病を始めた。「子が4人もいるのだから家内は絶対に助けなくては」という思いだった。(敬称略)

奈留島の自宅前で写真に納まる矢口哲雄(左)と次女敏子。カネミ倉庫製の汚染油を摂取し始めた頃とみられる

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